【陸前高田】
話し手:佐々木 洋一さん
聞き手:谷 恵利香
聞いた日:2015年8月9日
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小・中学生の頃から家の労働力を担う完全なる一員だった
佐々木洋一です。昭和2八年生まれの61歳です。陸前高田市で3人兄弟の長男として生まれました。今は陸前高田市で牡蠣(カキ)養殖業をしています。お袋と妻と子どもと孫が2人います。親父は元気だったんだけれども3・11の津波で流されました。
性格は、自分で言うのもあれなんだけど、おとなしかったんでねえかな。ただ家の仕事でね、子どもは子どもで役割分担があって、いろいろ手伝わされて、労働力を担う完全なる一員だったね。小学校の高学年あたりから、学校から帰ってきたら、浜の仕事を手伝ったり果物の仕事を手伝ったり。本当は小学生のとき野球好きで野球をやってたんだけど、結局うちの仕事を手伝わなくちゃならなくて、中学生になったらもう無理で。でも部活は入っとかなくちゃいけなくて、しょうがないから半分活動していないような部活に入って、学校終わったらすぐ家に帰ってきて、仕事の手伝いをやってたね。勉強も学校でやるくらいなもんで、当時は家で勉強するやつなんていなかったからね。
家の仕事としては海苔(ノリ)の養殖をやっていたんだけれども、当時は今みたいに機械化されていないし、船もエンジンが付き始めたくらいの時期だったから、ほとんど人力に限られていて。だから、収益も限定されて海苔(ノリ)の養殖だけじゃ、ご飯食べていけないから、多くの家が、畑だとか田んぼとかも少しずつ持ってた。うちの場合も田んぼを3つくらいやって、あと果物でもリンゴとかナシをやってて。その仕事で1年が回っていたっていうか。家の親の仕事っていうのは1年中忙しかったんでね。休みなしでいろんな仕事をやってたもんだから。それをずっと見てたって感じかね。あと、畑、田んぼのために牛を飼ってたりしたね。動物を飼ってるわけだから、結局どこにも行けないんだよね。
だんだんと海の仕事の機械化が進んで、果物よりも養殖業に力を入れるように
だんだん年数が経つにつれて海の仕事が機械化されてきて、船も労働力の確保に困らなくなって、稼働量もアップしたわけだ。
例えば、今まで1時間かかって船を漕いで行っていたところに、5分か10分で行けるようになったりとか。そんなこんなでやれることが広がったかな。あと牡蠣(カキ)だとか若布(ワカメ)だとかを、このときくらいから養殖するようになってきたんだよね。経営規模が大きくなると収入も上がるし、それに伴って、そっちの方に労力のウェイトがいくから、逆に果物とかの方に手をかけなくなってしまって。やっぱりある程度、専業みたいに一生懸命、手をかけないといい作物はできないじゃないですか。すると、結局収穫できなかったり、売れるようなものが成らなかったりするわけで。うちでも果物に手が回らなくなって、だんだん縮小していったんだよね。
水産高校を卒業したが、手に職をつけるために大工を目指し千葉へ行った
高校も水産高校に入ったね。家の仕事を担うために海の知識を身に付けたいと思って。最初からある程度計画的だったというか。でも、高校終わってから八年くらい千葉県に行って大工さんやってたから、高校卒業するときに担任に「なんでお前、水産高校を出て大工やるんだ!?」って言われたね。「いろいろあるんだ」って答えたけどね。結局、うちの仕事は、俺が高校生の頃には、機械化が進んでいたものの今みたいに恵まれた環境ではなかったから。それに、漁業も限られた浜を使っているから人数もいっぱいで、水産高校に上がって親父と一緒に仕事をやっても漁場が狭いから仕事した分、量が取れるってわけでもないから。それだったら「手に職をつけた方がいいんじゃないか」ってね。この辺はそういう考えの人が多かったんでね。「若いやつは外で働いて勉強して来い」ってね。
大工になって「自分から世の中に打って出る」という思いになった
千葉では徒弟制度で師匠に弟子としてついて、「仕事は盗んで覚えるもん」っていう教わり方をしたね。それで3年半修行して、一人前になって、俺も生意気だからすぐ仕事を受け始めた。仕事をいろんな知り合いの人から譲ってもらってね。自分で看板上げてやっから、生意気っちゃ生意気で、世の中に打って出るっていうか。今までなら、「組合のルールにのっとって軒を出すのと同じように、黙ってものつくって、いつも安くたたかれんのとか面白くねえな」みたいに思ってても「相手に自分から打って出よう」みたいなんはなかったかもしんないね。でも、社会に出たことによって「自分から世の中に打って出る」という気構えっていうか思いになった。「大工をやっていても、人に使われてばかりでいつまでたっても同じだと面白くねえから、自分でやるしかねえ」ってね。苦労もあるけどやりがいはあるよね。だけど、もちろん見ず知らずの者に仕事なんて来るわけないから、知り合いや兄弟弟子たちから仕事紹介してもらって。腕には自信があったし、絶対に手を抜いたりしない。最初は「俺より下手くそなやつが普通にやってて、なんで俺が売れねえんだ」って思ってたね。面白くないじゃん。だけど、そういうのが1つのやる気になった。それがだんだん、次から次へと仕事が来るようになったから面白かったね。
社会に出て、世の中っていうのをいろいろ体験したね。一応、仕事を受注しているので顧客がいるわけじゃないですか。ある程度、図面をもとに工事を進めるんだけども、顧客と話をしたり、要望を聞いたりして建物が完成してくると、最後になって、お客さんが「ここを変えてくれませんか?」とか、いろいろ厳しい相談があって話し込むといった経験をして。そんなところで、うちにいたときと違って見方が広がったっていうのかな。そりゃ、やっぱ別な社会に出ていろんなものを見たから、うちに帰ってきてからも対応の仕方っていうのがいろいろ変わってくるっていうのかな。うちで育てた牡蠣(カキ)なんかも築地の市場に出荷するんだけど、どういう流れで、どういうお客さんが、どういう風にして食べてんのかわかるじゃないですか。だから、これからも育てていくには、ただこっちの育てる側の理屈だけじゃなくて、ある程度、都会の築地のお客さんを頭の片隅で考えるようになったね。
陸前高田に帰ってきてからは養殖業と大工を
26歳のとき陸前高田に帰ってきたのかな。そのうち漁業の経営規模が大きくなってきて、俺たちの年代で後を継ぐ人がいなかったし、ある程度人が淘汰されていたのもあって、漁場を広く使えるようになって、ちょうど変化の時期だった。あと、千葉では遊んでばっかりで、親に「いつまで遊んでんだ」「身を固めなさい」って言われて高田に帰ってきて、26歳で結婚したね。こっちに帰ってきてからは海の仕事をしてたけど、春とか仕事が割と楽な時期は地元の大工さんを手伝ってたね。「楽になったら大工の仕事を手伝ってくれ」って言われたから。ただ、うちの仕事も規模が拡大していったから、だんだんその暇がなくなって。地元に帰ってきてから大工の仕事手伝っていたのは4、5年くらいじゃないかな。
自然の恩恵で生かされている
まぁ確かに自然相手だからいろんなことがあるにしても、とにかく、ある程度ちゃんと買ってくれるお客さんもいるわけだから、そういうのを大事にして手を抜かないで一生懸命やっていく。そういう信念みたいなものはあるけどね。それで自分の生活も成り立っているし、生きていけるっていうか。逆に言えば、自然の恩恵を享受して生かされてるから。ここは魚類じゃなくて貝類とか藻類だから、本当に自然の栄養分をあてにしてものを作っている。ただ、人為的にやれるのは技術的なことで言えば、1つの畑(養殖筏)で、できるだけ多くの粒の良質の牡蠣が採れるように見定める、というところはあるけれど。自然の恩恵をもろに受けてるわけだから、いかにして永続的に続けていけるか。だから、謙虚に自然に生かされるっちゅうのを感じるところがあるね。自然相手に生かされていれば嫌でも感謝を感じるね。
何度も来る津波の被害を乗り越えるには簡単にへこんでられない
津波は、今回の3・11だけじゃなくて、今まで何回もあったから。十勝沖地震とか昭和35年のチリ地震とかあったしね。3・11の1年前にも南米のチリから来た津波があって、1メートル足らずの津波だったけど漁場の3分の1くらいがやられてね。それで復旧作業とかやってね。3・11の当日の午前中にその復旧の最後の作業をして完全復旧したんだけどね。で、終わったら午後に地震と津波が来てね。午前中に終わったばっかりで。今回のは壊滅的で、家まで流されたから。浜の施設も全滅だった。でも、浜の施設が全滅だったのは今までで1回だけじゃなくて2・3回あった。前は今みたいに国が全面的に支援してくれたりしないから少しずつ自分たちでできることから始めて。少しでも余裕が出たら作業を増やしていく。そういうふうにやってきた経緯があるから、ある意味打たれ強いっていうか、簡単にはへこんでられないね。
瓦礫もすごい量だったし、処分するところだって、車だったら車、木材は木材、鉄分は鉄分とかで、いろいろ片付けながら、何回も何回も移動して。後から処分所がほかの県とかに持って行って処分してくれる。岩手県だけじゃ対応できるレベルじゃないんでね。それこそ神奈川とか東京の方まで持って行って処分してもらったじゃないですか。で、「瓦礫を受け入れられない」だの「放射性物質が入ってるから駄目だ」だのって、当時はそういう話になってたね。だから実家はしばらくかかったな。よく片付けたなと思って。
復興が早い地域には条件があるんだと思うけど、高田市の場合は街ごとすっかりなくなっちゃって、近くに山があって土が切り出しやすいだとか、自治体自体が早く決断して次どうするかっていうのを決めたとか。
「ここまでやってきてやめられない」という思いが原動力に
仮設住宅ができるのがだいぶ後だったから、その間、「とにかく家族だけで住めるところは何とか確保しないと」と思って。妹がそのとき横浜にいたからお袋を仮住まいができるまで預かってもらってて。プレハブを見つけて、友達の土地を借りて、そこに仮住まいを建てて、何とか家族が住めるようにして。そこから、壁を張って断熱したりしてから、お袋を呼んで。その横浜に行っているときにちょうど弟が亡くなって。引き取りに行ったのね。車はもちろんなかったから、従妹の車を借りて。火葬して帰って来たんだけど。弟は個人タクシーの仕事をしていたから、車の処分からいろいろ、その仲間の人たちに手伝ってもらったりして。死亡届を2、3日のうちに提出するとか、震災後2か月足らずのうちに役所関係の用足しを全部済ますなど、本当に疲れちゃって。当時は家のことでもいっぱいいっぱいだったし。あの頃は俺も本当参ってた。当時はなんていうか、うつ病だよね。何もかも嫌になっちゃって。「やめようかな」ってね。でも、だんだん暖かくなってきて、元気が出てきたっていうか。原動力になったのは仕事が軌道に乗ってきてたことかな。「これからだ」ってときにやられたとこはあるから。息子もやる気になってきて、だんだん仕事を覚えてきて面白くなってきたときだったし。作業場もできて1年足らずで壊れてしまったんだけど。その作業場も国の補助をもらうといろんな制約があるからって、補助をもらわないで全部自分で創ったんだがね。だから、金もすごくかかったんだけれど、最後に使いやすい作業場ができてやれやれって感じだったんだよね。それがあったから悔しかったね。「せっかくここまでやってきて、やめるにやめれない」ってね。結果的にそれが一番原動力になったんじゃねえかなって思うね。震災前は養殖業を10世帯でやっていたんだけれど、震災後にやめたのは1人だけで、あとのみんなは一緒に続けてるね。
後世に「負の遺産」となる防潮堤を残してはならない
防潮堤とかは被害が結構大きかったし、工事の人だって多くいるわけじゃないから、なかなか復興が進まないけど。今の残っている堤防が6メートルくらいの高さなんだけど、今度はこの倍以上の高さになるっていう。昭和35年のチリ地震津波のときに大体6メートルくらいの高さの津波が来たから。それを基準にしてこの防潮堤を造ったの。ただ強度的に問題だとかで、3・11の前に補強したりはしてたの。でも津波が14メートルの高さまで来たから。うちのあたりは16.5メートルくらいまで来たんだけどね。今度の防潮堤は、電柱の高さくらいだから、すごく高くなる。俺たちは「そんなのいらねえ」って言うんだけど。津波は超えるときは超えるし、防潮堤とかは壊れたり風化したりしていくから強度的にコンクリートを補強しなきゃダメになる。だって1000年に1度とかで津波が来るわけで、「コンクリートの寿命が100年持たなかったら、どうする」ってね。補強も地元自治体でやっていかないといけないしお金もかかる。それでなくても過疎で大変なのに、どうやって防潮堤を維持していくかっていう。景観も悪いし、維持管理費はかかるし。それよりは、高台があるんだから、そこに人が引っ越せばいいだけの話。津波が来るところにいなきゃいいんだから。今回できる防潮堤も、「なんでそんな高く造るんだ」って、「万里の長城みたいなそんな高い塀の中で誰が住みたいか」ってね。「後世に負の遺産を残してどうすんだ」って話だよね。人工構築物っていうのは、いつかは壊れるんだし、やっぱ自然っつうのは偉大だし大きいよ。それに逆らおうって思っても大きな間違いだから。いかに自然と共生して生かされてるかっていうのを理解して、人間も動物の1つだからもっと謙虚な姿勢になって、よく考えてやることが結果として自分たちにいいこと。
ダムのほうも結局ダメになったんだけどね。なんでかっていうと利水するためとかじゃなくて、「気仙川が氾濫したときに高田市の町が浸水被害を受けるから、そのためにダムを造るんですよ」って言ってたのが、震災を受けて高田市が壊滅して守るべき町がなくなったからダム造る理由がなくなっちゃったわけだ。だから唯一、津波来て良かったっていうことはダムが廃止になったこと。皮肉なことに。
漁業を魅力ある産業にしていく
このままここの産業をやっていくと考えると難しいね。いくら機械化が進んだといっても、後継者が断然少ないから維持していくことを考えると人が不足しているから。これからいかに人材を確保してくかっつうのが今後の課題になんだけど。簡単に言えば楽しくてお金が儲かれば誰でもある程度やるわけで、いかにそういうふうな状態に近づけて魅力ある産業にしていくか。すごく難しいことなんだけど。私も漁協の理事をやっているから、そんなこんなで、何もしないでいいわけじゃないから。「何かできることから少しずつ考えて、アクション起こしていかないと」とは言ってんだ。
漁業後継者を養成していくためには、興味持っている人を受け入れる体制が必要
震災のおかげでボランティアの人とかが来て、この地域に興味持ったり、住みついたりする人が、農業とかあるいは食べ物屋さんとかで結構いるんだよね。そういう部分では震災のおかげでいろんな人が来たりすることがあるから、全くチャンスがないわけでもないんだよね。そういう今の時期の捉え方によって、少しでも「やってみようかな」って気がある人を取り込むような、受け入れるような体制を作っとかないとダメなんだよな。あと、そん中でも「難しい」とか、「できねえ」とか、「どうしても合わねえ」とかって人もいるわけさ。実際に引っ越してきて「漁業やりたい」って言っても組合員の資格がいるから。もちろん、その資格を取得して「漁業さ、やる」っていう人もいるんだよね。で、今2、3年やっている人がいる。全くないわけじゃなくて、そういう人もいるわけよ。
あと、5年くらいしたら「歳だからやめる」っていう人もあっちこっちにいるわけよ。その人がやめたら子供で後継ぐ人がいればいいけど、自分の子もいないし親戚にもいないし自分の代で終わりっていうとこもあるわけだ。それを仲間たちが「じゃあ、みんなで少しずつ分け合って維持していこう」っていう体力があればいいけど。今はそれもほとんど自分のでいっぱいいっぱいで飽和状態だから、これ以上やめる人の分も受け入れるっていうのはなかなか難しくなってきている。そんときに「それで終わらせていいのか」ってね。そうすっと、漁業の経営からすれば組合員が減れば、その分の収入も減るから、組合の経営も大変になってくるわけだ。だから、ある程度、地域の水産業を維持していくには人を補充していかないとダメだね。
あと、5年でやめる人の見習いで仕事を覚えてもらいながら、その人がリタイアしたら引き継いでやれるようなそういうシステムを作ったらいいんじゃないかなって思ってるんですよ。「後継ぎがいない」ってなったら、やっぱり一般の人を探して養成していっていくしかないんじゃないかなって思うわけね。
今までがむしゃらにやってきたから世の中をまた見て歩きたい
まだ、親父が見つかってないからあれだけど。今、息子たちが、ある程度一人前になってきて、がむしゃらに毎日毎日一生懸命やってきたから、肩の力を抜いて旅行したりなんかしたいね。うちの母ちゃんがさ、結構、山の方行ってて。山登りは体力作りにいいんだけどよ。俺も近くの山で栗駒山とかって行ったりしたけども。てっぺん登ってさ、弁当とかカップラーメンとか食べるんだよね。カップラーメンなんて、高いとこだと蓋がポッコリ膨らむんだね。気圧が低くなるから。お湯沸かしてカップラーメンを作り、おにぎりと一緒に食うのが最高にうまいんだけど。今、やりたいことは、それだけだな。山は確かに達成感はあるよね。結局、漁業もいいものつくって喜ばれると1つの達成感みたいなものがあって、頑張ろうという気にもなるわけで。もう少し、余裕が出てきてっていうか、少しは遊んで歩けるような歳にもなってきて、体力も戻ってきたから、がむしゃらにできる年代でもなくなったし、世の中をまた見て歩いてみたいっていうのはある。
【聞き手の一言】
私は、陸前高田市で牡蠣の養殖をされている佐々木洋一さんを訪ね、聞き書きを行いました。東日本の震災によって養殖場や自宅が壊滅したことや、家族をなくされたことが本当に辛かったとおっしゃっていました。それでも、現在は牡蠣の養殖を続けておられて、困難を乗り越える過程で何かを得て、それをプラスに変えていることに強い信念を感じました。自分も佐々木さんのように力強く生きていきたいと思いました。聞き書きをさせていただき、ありがとうございました。
谷 恵利香