【陸前高田】
話し手:熊谷 克郎さん
聞き手:松岡 由依
聞いた日:2015年8月11日
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小さい頃はおじいちゃんっ子だった
「農家カフェ フライパン」という飲食店を経営している熊谷克郎です。34歳です。現在は陸前高田市に住んでいて、家族は妻と子ども、長男長女がいます。小さい頃の家族構成は、じいちゃん、ばあちゃん、お父さん、お母さん、お姉ちゃんと自分っていう6人でした。よく3つ上の姉の後について行ってたな。一緒に登校したり、仲は良かったかな。姉とは性格は全然似てなかったですね。あと、幼少期に限らずなんですけど、おじいちゃんがすごい好きで、おじいちゃんっ子だったっていうのもあって、小学校の自由研究とか夏休みの工作とかをおじいちゃんと一緒にやったりとか。引退する前は中学校の先生だったので、勉強もすごく教えてもらって、高校を考えたりするのとかも相談乗ってもらってた。なんか家族で一番性格が似ているのもおじいちゃんでした。
小学校、中学校の間はずっと野球部
僕の性格は、今と昔で変化はそんなに無いかな。別に目立つほうではないと思ってたけど、何か役職につくことがあって。生徒会の役員をしていたんですけど、でも会長ではなくナンバー2の副会長。これが自分的にはしっくりきてたかな。小学校と中学校両方とも副会長をやってた。部活は小学校から中学校の間はずっと野球部。まあ、はじめ下手だったんだけど、中学校に上がってからすごい野球を練習した時期があって、それですごい打てるようになっちゃって。打線でいうと3番っていう打順に入れてもらえるまでになった。それまでは全然打てなかったし、それでも相変わらず守備は下手だったけど。なんか一気に中学校に入ってからうまくなったね。「あれは本当に、すごい頑張ったな」って思ってる。将来の夢とかは、何も考えてなかったな。実家がりんご農家だったけど、かといって農家になりたいわけでもなかったし。
「進学するんだったら東京かな」っていうのがあった
高校になるとね、野球をやらず、なんとなくバレー部に入った。おもしろかったのが、隣の大船渡市の大船渡高校のバレー部に入った同期のほとんどが元野球部。「あ、○○中学の○番だろ」みたいな感じになって。そんな野球部くずれで構成されてたんで、もちろん弱かったんだけど、結構頑張って県大会にも行けた。部活はそんな感じでした。高校のときも将来の夢は特には考えてなかった。志望してた学部が経営学部だったから、高校で提出する進路調査書には税理士とか書いたりしてたけど。「進学するんだったら東京かな」っていうのがあった。姉が先に東京の大学に行ってたのもあって、「もし行くんだったら一緒に住んで家賃も節約できるし」って考えて。だからあんまり他の場所は考えてなかったかな。
大学はね、学部の専門的なことはね、ほぼ何も勉強しなかった。本当、親に申し訳ないくらい遊んでた。まあ主にサークルかな。サークルではね、バンドをやってた。ベースを中3くらいに買って、高校時代は軽音部とかなかったから、友だちの家でアンプとかドラムとか持ち込んで練習してた。それはそれですごい楽しくて。大学に入って、その軽音みたいなサークルを見つけて、入ったのが良くなかった。先輩に捕まって、音楽のこととかお酒のこととかたくさん教えてもらったし、学校には行くけど教室には入らない。そんな感じでずっと過ごしてね。卒業するのも1年多くかかってしまってるんで。
奥さんとは大学の同級生、サークル関係で出会った
ミュージシャンの道に行くことも一瞬だけ考えた。うちのバンドにすごく調子いい時期があって、「このまま、もしかしたら行けるかな」ってなってた。「CD出せるかも」っていう話もあったしね。結局そのバンドも解散したんだけど、そんな話もあったな。期間としては1年もないぐらいの間だけだったけど。そのときも将来のことは考えていなくて、就活とかもほとんどやらなかった。何社か形式的に受けたけど、もちろん受かるはずもなく。大学時代はずっと東京にいたんだけど、大学4年生のときぐらいから、上野の老舗のあんみつ屋さんでずっとアルバイトしていて、卒業してからもそこで働きながらフリーターをやってた。で、あるタイミングで正社員にしてもらって。それからずっと東京で働いてました。
結婚はね、28歳のとき。僕らの世代では早いほうなんですかね。奥さんは千葉の人で大学の同級生。結婚するまで7年ぐらい付き合ってたかな。出会ったのは、サークルは違ったんだけどサークル関係で。うちの奥さんが、舞台技術研究会っていう音響と照明を専門にやるサークルがあってそれに入ってて。それで、学内の軽音サークルのライブとか舞台公演とかがあるときは、そこのサークルにお願いして一緒にライブを盛り上げるみたいな、そういう関係があったんだけど。もちろんその舞台技術研究会の人たちはライブとかに関わるから他の音楽サークルとも仲良かったし、うちも当然協力してもらっているうちに仲良くなって、打ち上げとかも一緒にやってたね。それで仲良くなった。好きな音楽が似ていて、話が続いたのがきっかけだったかな。東京にいる間に結婚して、今は結婚して6年目で、3歳と2ヶ月の子どもが2人います。
「壊滅ってどういうことだよ」って思った
震災当時は、俺、職場が東京の上野だったから、14時46分っていうあの時刻は本社でちょっとパソコンで事務仕事をしてて、「よし、じゃあ店に帰ろうかな」って思ったら地震が来た。東京も結構揺れたね。駅前にヨドバシカメラがあるんだけど、上が、がんがん揺れてて。「あ、これはなんかまずいな」って急いでお店に帰った。そのときは地元の陸前高田の近くで起こった地震だっていうのはわからなかった。結局それを知ったのって夕方ぐらいだった。俺、店長だったんだけど、やっぱりそれまではお店のこと考えなきゃいけなくて。ちょっと様子を見て、「あ、やっぱこれおかしいな」って思った。お店を閉めたりお客さんも帰したり、なんやかんややって、落ち着いて携帯電話をみて、「実家のすぐそこじゃん」ってびっくりしたよ。「ちょっと電話してくるから」って言って電話しに行ったけど、やっぱり全然繋がらなくて、「これは本当まずいな」って思った。その日の夜にうちの奥さんを迎えに行って、なんとか帰宅して、夜、テレビをつけたら「気仙沼が火事」って報道がされていて、もう火の海になってる様子がパってでてきて、それを見てすごいショックだった。その日はあんまり寝れなかったね。それで、次の日に朝一でまたテレビつけたら陸前高田の報道があって、「陸前高田壊滅」しか言われてなくて。「壊滅ってどういうことだよ」って思った。
震災から2週間後に東北自動車道が復旧して通れることになったから、奥さんと子どもは東京に残して、うちの姉の家族と協力して実家に行ったのが一番最初だね。とにかく、復旧がほんとに大変な状況なんだっていうことを知ったときから、「またもう1回帰らなきゃダメだな」って思っていた。地元に戻ってきて1週間ぐらいここでボランティアを、支援物資の配布とかをやった。配布していたのは、前、うちの実家のりんご直売場だった場所だった。この辺の地域も被害があって、地元の公民館みたいなところも流されちゃったから、この場所を代わりに使って自衛隊の人が来て物資を配っていて、その手伝いを1週間やって東京に戻ったって感じだったかな。
東京に戻る日には地元に帰ろうってもう決めてた
それから東京のあんみつ屋の職場には一応復帰はしたんだけど、本当に東京に戻る日くらいには地元に帰ろうってもう決めてた。東京に戻って上司に仕事を辞めて地元に帰る相談をしたら、「やっぱり言うと思った」って言われたね。結局その年の5月の末ぐらいに仕事を辞めて、そこからちょっと東京の家の身の周りの整理とかをして、6月の15日に陸前高田に帰ってきた。そのときは奥さんも一緒に来た。奥さんの地元の千葉県の松戸市は結構都会だから、やっぱ基本、都会っ子でさ、こんな田舎の何もないところに、ただでさえ何にもないのにさ、さらに何にもないとこに本当によく来たなと思うよ。こっちに来た当時はね、結構喧嘩した。「何で何もないの」「だってしょうがないじゃん」みたいなね。一番偉いのはうちの奥さんだと思ってる。俺の中ではね。
災害ボランティアセンターっていうのを運営する社会福祉協議会っていうのがあるんだけど、俺の中学校の同級生がその災害ボランティアセンターで働いていた。俺が帰ってきたのをどっかから聞きつけたのか、電話で「ちょっと手伝ってくれ」っていう連絡が来たから、「行く行く」ってすぐ返した。それから高田に来て1週間くらいのときに働き始めて、社会福祉協議会の職員を募集しているっていうのを聞いて、「じゃあやってみようかな」って思って職員になりました。今思うと、帰るときに、義理のお父さんに「仕事、どうするんだ」って言われて、「いや、なんとかなると思います」って答えてた。まったく考えてなかったんだけど、まあ何とかなるかって考えで。
りんごエールはたくさんの人が携わって実現した共同プロジェクト
このお店「農家カフェ フライパン」ができるまでもね、色々あったんですよ。うちの店の入り口にさ、「瓦Re:KEY HOLDER」っていう震災のときの瓦礫を使って作られたキーホルダーがあるんだけど、あれを開発したメンバーのうちの1人に「米崎のりんごを使ったビールを作りたい」って話を持ちかけられて。それで、そこのメンバーと「りんごエール」っていうりんごのビールを一緒に作った。
りんごエールは「瓦Re:KEY HOLDER」のメンバーと立ち上げたけど、うちの親と同級生が作っている米崎りんごを使っていたり、ラベルのイラストとかキャラクターのデザインを、もともとデザインをやっていた友だちの女の子にお願いしたり、たくさんの人が携わって実現した共同プロジェクト。このプロジェクトには目的が2つあって、1つは「乾杯をつくりたい」っていうこと。「震災があってみんな悲しいけど、でもおいしいものや地元のもので元気になっていけたらいいな」って発想でね。あと米崎のりんごってすごいおいしいから、それを広めたいっていうのが目的の2つ目。実はこのりんごエールが売れなくても良かった。完売はしたんだけどね。りんごエールを売るのが目的じゃなくて、「陸前高田でりんごを作ってるんだよ」っていうのを少しでも知ってもらうための手段の1つにするのが目的。りんごって買ってそのまま食べたりとかする人って最近減ってるでしょ。そもそも、ここでりんご作ってるっていうの多分みんな知らないと思うしね。岩手県って盛岡とか江刺とか、あと奥州市とかが有名なんだけど。もちろん青森県とかすごい有名で、その次は長野県だし。それに沿岸で作ってるっていうのも、すごく珍しいよ。「ここでも作ってるんだよ」っていうのを広めたいってなってできたのがこのビール。
商品化したのが2013年の夏で、年明けに発売。ビールの仕込み量の4分の1に相当するりんご果汁をいれてる。結構、贅沢に使ってるからね。りんごって柑橘系に比べればすごい香りが弱くて、だから加工品にするとりんごの匂いってなかなか出ない。それが苦労したところ。香料をいれたり、いろんな手があるんだけど、あんまりそれはやりたくなかったし。甘さが出なかったりでも苦労したんだけど、ここのりんごってすごいポテンシャルが高い。糖度が、青森県産のは14%とかなんだけど、ここのは15とか16とか。やっぱすごいおいしいやつだから、それを使うとなんとか味とか香りとか出るかなって考えた。あとは、麦をちょっと焦がしてカラメルっぽくしたのを入れてコクを出すとか、理想の味に近づけるためにいろんなことを試していって発売できました。
「自分のお店、やろっかな」って何となく漠然と考えてた
りんごエールを開発した人が、「今度はコミュニティを作れる場が欲しい」って考えて「ハイカラごはん職人工房」っていうカフェを始めた。キーホルダーの売り上げの一部を使って作られたから、瓦Re:KEY HOLDERに込められた思いとかが組み合わさったすごい良いお店で。そこで、りんごエールも提供しはじめて。本当に良いお店だったんだけど、それから1年も経たないうちに「「ハイカラごはん」を閉店しなきゃいけない」って話になったって相談されて。「どうしよっか、このまま辞めるか、何とか居座るか、移転するか…」。一緒にいろんな選択肢を考えたけど、「やっぱりここは一旦閉めて移転したいな」っていう話になった。実家のりんご直売所だった場所は震災の避難所として利用されていたんだけど、それが終わった後は、市外から来た建設会社に宿泊所として貸してた。その建設会社が撤退するってなって、今この店があるここがちょうど同じタイミングで使えるってことになってて、はじめは俺も「ハイカラごはん」がなくなるって知らなかったから、「ここで自分の店をやろっかな」って何となく漠然と思ってた。そもそも飲食店で働いてたから、夢のレベルで具体的なところまでは詰められていなかったけど「いつか自分のお店を開きたいな」とは考えてた。ここが空くってなって、「場所も広さもちょうどいいな」って思ってたら、「「ハイカラごはん」を閉めなきゃいけない」という話を聞いて、「そうだったんだ。実はね…」って、この場所のことを話したら、「もともと「ハイカラごはん」を始める前にも候補として考えてた程、いい場所だ」って言っていて。共同経営じゃないけど、なんとか一緒にやれる道はないかなっていうのを考えたのが「農家カフェ フライパン」のはじまりだった。
「ハイカラごはん」の注目度が「フライパン」の成功にもつながった
「じゃあ、なんとか一緒にやれる方法探そうか」ってなってから、「今まで働いてた従業員はどうするか」とか、「そもそもどういうお店にしたいか」とかを俺とハイカラの人たちで話し合って。やっぱ、話してみると結構共通点が多くて、「高田で人が集まれるお店を作りたい」とか、「ちょっとおしゃれな店を作りたい」とか、すごいかぶるところがいっぱいあったから、「それだったら一緒にやろうか」っていうことになった。りんごエールを売るっていうのも決めてた。自分たちで作ったやつだからね。ハイカラが営業残り1カ月ぐらいのときに、ここも工事が始まったんだけど、プロの大工さんにも来てもらったりもしたけど、スタッフで手作りもして、それにすごい時間がかかったね。素人だからね。クラウドファンディングとかもハイカラの人のアイディアでチャレンジした。その人が前も成功させた実践があったから「これ、いけるんじゃないか」っていうことでね。最後の方、諦めてたんだけど、何とか達成できたよ。残り十日くらいで百万くらい足りなかったんだよね。だけど最後みんながすごい追い込んで何とか達成できた。クラウドファンディングって一種のお祭りって感じで、関わる人を集めてみんなで一斉にドーン、ってするのが常套手段みたいで、まさしくそんな感じ。もともと「ハイカラごはん」とか「瓦Re:KEY HOLDER」とかに関わった人たちってすごいいるし、「瓦Re:KEY HOLDER」って多分もうすぐ十万個くらい売り上げる。だから本当何万人っていう単位で注目されてたんだと思う。「「ハイカラごはん」が閉店して新しい店になるんだ」っていう、そういう注目度もあったから成功できたのかなって思う。
お金がない分アイディアでカバーする
店内の内装もスタッフのアイディア。設計図がなくて、1枚の平面の間取り図があるぐらいで、「じゃあ天井はどうする」「壁は何貼る」とかその場その場で決めていって。壁の飾りは漁に使う浮きなんですよね。それを大工さんが持ってきてくれた。お金もなかったから。お金がないぶんアイディアでカバー。天井も普通にホームセンターで安く売ってる板を使ってて、色4種類サイズを3種類に切り分けてランダムに貼っていくっていう工夫をしている。あとは、どういうお店を作りたいかって最初考えたときに、うちの子どもも小さいし、うちの奥さんとかとも「子どもを連れていけるところってあんまりないよね」って話をしていて、「じゃあ作るか」ってなったのがそもそも始まりで、キッズスペースを作った。「ここだったら真ん中に子供を遊ばせておいて、お母さん同士でしゃべってても、安全だからゆっくりできるかな」って思って。家族で来てくれるお客さんは結構いるね。自分で言うのもあれだけど、「これは当たったな」って思う。やっぱり高田には当時はそんなお店はなくて、それが良かったのかなと。
「俺がやんなきゃ、ダメだ」って思った
お店ができたのが2014年の7月16日だから、今でちょうど1年ぐらいだね。なんかそれ以上やってるような感覚。みんなのコミュニティになって欲しい。注目してくださっている人も結構多くて、県外からもたくさん来てくれるし、地元の食材でおいしいものを作って陸前高田の魅力を感じてもらえる場所になればいいなと思ってます。
「やるしかないな」って思ったんです。俺は、ここにいて被害を受けたわけでもなかったし、親戚は結局8人亡くしてるんだけど、すべてを失っているわけではない。震災直後って動ける人と動けない人がいたと思うんですよ。俺はどっちかっていったら動ける、行動できる人間だったから、「多分、俺がやんなきゃ、動かなきゃダメなんだろうな」って。もちろん家を流されたり子供を亡くした人って、何かをしたりとか前向きに考えたりとかって当時はもとより、今もできないと思うから。だけど俺はそうじゃなかったから、「とにかくやるしかない」って。なんか東京にいたUターン組は、東京で得たものがあると思うし、技術とか経験とか、ここにいたら得られないようなことっていっぱいあったと思うから、そういうのを持ってこっちに帰ってきたんだし、だから「何かやらなきゃダメだなってな」って考えで。色んなタイミングもあって、「じゃあやるか」ってなった。
行動できたのは社会福祉協議会にいたからっていうのがあるかな。社会福祉協議会に入って事務仕事じゃなくて、仮設住宅を見守る、1人暮らしの高齢者とか体の悪い人とか小さい子どもがいる世帯とかを訪問したりするっていうのをやってたから、そういう経験からかな。現場に行って、すごい悲しんでいる人もいたし、元気な人もいたし、いろんな人と会えて、いろんな話を聞けたからなのかなって思ってる。
「高田っておもしろいところだな」って思ってもらえるような町をつくっていきたい
このお店はこれからも続けられる限り続けていきたい。一応目標は10年。飲食店に限らずだけど、開業して5年間続けられるのが20%しかない。それだけ厳しい世界だけど、そこをクリアしていきたいね。そのために家族でこれからもここに住んで、やっぱり陸前高田のために帰ってきたから、これから町ができていくのを見守るってわけじゃないけど、多分商業や経済の中心は高田町になると思うけど、米崎町でもおもしろいことをやっていけたらいいなって。「陸前高田っておもしろいところだな」って思ってもらえるように一緒に町をつくっていけたらいいな。自分の子どもたちが苦労することがないような町にしていきたい。
仕事を続ける一番のモチベーションはやっぱおいしいものだった
これからの人生ね、何かおもしろいことをやっていきたいなって思う。高田を盛り上げるためにおいしいものを作ったりとか。まあ今もそうなんだけど。1つ目標があって、何年後かにこのお店を誰かに任せて、俺はりんご農家になりたい。りんごを作る側になりたい。このお店で、すごい小さい6次産業みたいなのができるんじゃないかなって思って。りんごを作って、それを例えばりんごビールにしてここで売ったりとか、りんごのスイーツメニューを出したりとか。来た人にはここでりんごのことを知ってもらえるし、「作ってるのは、あそこの畑なんですよ」って言ったりとか。かなり狭い範囲だけど、できそうな感じがするな。それをもっとこれから具体的に詰めていきたいなって思ってます。
「おいしいものを作りたい」って言ったけど、東京のあんみつ屋で働いてたときも、仕事を続ける一番のモチベーションって、やっぱ、おいしいものだった。すごいおいしいあんみつ屋さんだったんだよ。今度東京行ったらぜひ食べてみてほしいね。「みはし」っていうお店で、上野の駅ビルに行けば食べられるから。こんなにおいしいものを提供できてるっていうのがすごいうれしかったし、お客さんもいっぱい来てくれて、みんなが「おいしい」って言ってくれて、「こんな最高なことはない」っていうのを東京で働いていたころから感じてた。帰ってきて、今までそんなことは思わなかったんだけど、北海道から来たメンバーとか、県外から来たいろんな人に会って、「ここのりんごってこんなおいしいんだな」っていうのに気づいた。家にあってもおやつ代わりに食べたぐらいだし、買ったこともないし、もちろん当たり前に家にあるものだったから。改めて米崎のりんごの価値を知ることができたから、それを作りたいなって思ってね。何年後かに、そんな簡単になれるものではないけれど、親父が元気なうちに教えてもらって、やれればいいかなって思う。
【聞き手の一言】
私は農家カフェ「フライパン」のオーナー熊谷克郎さんを訪ね、聞き書きをさせていただきました。「自分より辛い思いをした人のために自分が動かなければならない」という熊谷さんの考え方は、自分のこれからの人生の中でも大切にしていきたいと感じました。熊谷さんの強さと大きな優しさを私の作品を通して伝えることができれば嬉しく思います。聞き書きに協力していただいた熊谷さん、「フライパン」の皆様、ありがとうございました。
松岡 由依