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医療は求められたところに行くのが一番いいと思って、陸前高田に来た

【陸前高田】

 

話し手 ── 吉田 和子さん

聞き手 ── 今田 葵

聞いた日 ── 2014年8月8日

 

 

PDF版をwebブラウザで読む(無料)

 

 

 

東大は私の庭だった

 

吉田和子です。昭和29年1月27日生まれで、このあいだ、還暦を迎えました。東京の文京区弥生町、東京大学の弥生門の前にあった家で育ちました。東大は私の庭でした。構内に三四郎池っていう池があるんだけど、幼稚園の頃は、その池を一周するのが冒険の旅でした。弥生門と龍岡門を通って東大の中を抜ける、御茶ノ水行きと上野行きのバスがあったの。幼稚園のスクールバスが迎えに来てくれたので、私は幼稚園のときは毎朝、弥生門から入って龍岡門から出ていた。毎日、東大に出入りするの。幼稚園の時から、入っちゃ出、入っちゃ出っていう生活をしてきました。

小学校は文京区の西片町ってとこにある誠之小学校に入りました。子どもの足で20分ぐらい行くところだったんだけど、東大の農学部が本校の右側にあって、その本校と農学部の間の道を通って学校に通ったの。その通学路の左側・東大本校の壁には、大きな蜘蛛の巣があって、そういうのをビリビリビリと剥がしてみたり。そうやって散歩がてら遊びながら行けるようなところだったのね。農学部ってところは、自由に中に入れちゃうわけ。研究のためにいろんな植物が植えてあって、なんかすごい楽しい場所で。秋になると、種がプチプチってついたのがぼろぼろっと落ちて、それを集めておままごとで遊ぶ材料にしたりとか。そういうところを通って、東京なんだけどいろんな冒険をしながら楽しく学校に通っていました。もっと冒険したい時は、帰り道に、誰も人がいない建物の中を通って出てくるっていう遊びをみんなでしたり。そういう風に、東大は変な話、本当に遊び場でしたね。遊び場なんだけど怖い場所でもあって。東大病院には霊安室とかそういうのもあるから、そっちの方の道は怖くて行けないし、みんなに「そっからお化けが出るぞ」とか言われるじゃない。東大が目の前にあったってのが子ども時代は一番楽しかったかな。今でもあまり変わらないで、ビルが建つわけじゃなくて、昔ながらの雰囲気を守っている街です。

 

女子校で、ワクワクとスリルを感じるような生活をした

 

6年生の時に、うちの母親が私立に入ってもらいたいって思ったらしくて、東京の赤坂の一等地にある「山脇学園っていう女子校を受けなさい」って言って。「私ね、小学校の時に一緒だった男の子とかみんなと仲良く中学行きたいから嫌だ」って言ったの。でも「一応受けなさい」って言われて、受けたの。別にできたとか何も思ってないんだけど、結局応募者がそんなに多くなくてなんか受かっちゃって。中学生・高校生の先輩たちがね、すごい素敵だったのよ。おさげが似合って、かっこよいお姉さまに見えて。あとすごく制服が素敵だったのね。「この制服着るならいいなぁ」と思って、入りました。

中学校の時は髪の毛が短かったんだけど、その学校はおさげをしなくちゃいけない学校なので、ずっと伸ばした。前髪も切っちゃいけないの。ずっと伸ばして私は高3までなるべく切らないようにした。でも髪の毛が厚くて多かったので、そぎ切りして。ゆるく編んでるのがトレンディっていうか素敵っていうのがあって、そんな雰囲気の先輩の様子を見て、真面目にきちっと結ぶ髪じゃなくて、自由な編み方をして6年間通いました。

クラブはね、フォークダンスクラブっていうのがあって。女同士なんだけど、オクラホマミキサーとかそんな簡単なのだけじゃなくて、ヨーロッパのいろんな国のを踊ろうということで、みんなでそれを研究して踊ったりっていうのを、なぜか真面目に6年間やって、楽しく踊ったな。体育祭で学年ごとに踊りがあるんだけど、高3の時は、剣の舞っていう踊りをするのが、すごいワクワク感。「早く高3になって、踊りたいわ」っていう、そういう学校になっていたのね。今考えると、すごい素直に育ってたんだなって思うんだけど。

高2高3の時には、低学年の人のあこがれの先輩になりたいなって思うじゃない。旧姓は鹿野っていう名前だったんだけど、何人かが、「鹿野さーん」って来てくれたから、可愛がってて。私を慕ってくれた後輩だけど、今でもずっと付き合ってる。あと、赤坂だったので、学校の帰り、中華そば食べたりとか。学校じゃ禁止されてるんだけど、みんなで食べたり。スリルを感じるような生活をしましたね。

 

同じだった通学バスが縁となり、主人と出会った

 

高校生の頃はね、松本清張をよく読んだ。地下鉄の通学でよく読んだなって記憶がある。ずっと読みふけってたし。あとね、『少年マガジン』も読んでた。「あしたのジョー」とか。毎週木曜日を楽しみにして、東大構内を通過する系統のバスに乗って御茶ノ水からの帰り、そのバスに乗る前に、必ず本を買ってバスの中で読むってのが高校の時は楽しかったかな。あしたのジョーがやられちゃったら、涙を流すぐらい没頭して読んでたってのは覚えてる。御茶ノ水行きのバスってのが、東大構内から駅へ向かうので学生たちが多かったね。中学・高校の時にそのバスに乗ったんですけど、朝に東大構内始発から乗る人は少ないわけ。2人か3人しか乗んない。その中にうちの今の主人がいました。毎日同じバスに乗って通っていたので、それが縁で結婚することになりました。それが出会いかな。

 

短大で教わったことは、今にもずっと繋がっている

 

短大は、山脇に入ったんですよ。本当はどっか受けようと思ったけど挫折して、短大までエスカレーター式で行っちゃえばって。食物科に入ったら、2年で卒業すれば栄養士の資格が取れたのよ。それから教職課程の2級とかいうのが取れて、せっかくだからそれを取ったの。家庭科の先生。中学生しか教えられないってやつだけど。短大のときは食物科だったから、いろんな料理を覚えたり教わったりするから、それがやっぱり今にもずっと繋がってる。デスクワークは全然好きじゃないから、作ったりするのが楽しかった。

 

歯科衛生士の資格を取って、結婚した

 

今からの女性はね、自分の手に職を持たないといけないと思って。栄養士の資格を持っているけど仕事になんないし。主人が歯医者さんの学校に行くってことになったから、歯科衛生士さんになったらいいかなと思ったの。そうしたらうちの父親が、「いいんじゃない」って言って。神田に、1年間で資格を取れる学校があって、入学しました。年齢が18から30過ぎまでの人が来てて、それはそれでまたいろんな社会を勉強できて、面白かった。それで、衛生士を取りました。そして、歯医者さんに勤めたの。11ヶ月勤めて、2月でやめて、4月に結婚しちゃった。でもその11ヶ月の間に、先輩に怒られるのに耐え忍びながらも、なんとなく身に付いたものが、歯医者さんを開業するにあたってすごい役立っていたわけ。

 

開業を求められ、32年前に陸前高田に来た

 

主人の家の3代前の先祖が、今でいう陸前高田市の気仙町から出ていって東京で産婦人科を開業した。その次の代が、うちの主人のお父さん。結構遊ぶのが好きだから、高田にしょっちゅう遊びに来たの。それこそ震災前でしょ。海はあるし、川はあるし、夏は必ず来た。秋は鮭が昇ってくるので必ず見に行ったり、そういうポイントポイントで遊びに来てたの。「いいよなぁ高田って」って思ってたわけね。親戚で仲良くしてる人がいて、毎回、そこのお宅でお泊りしてたの。結婚して4年ぐらいたった時に、「開業しようかな、どうしようかな」ってそのおじさんに話したら、「こっちで開業してくれないか」って言われたの。「なんで」っ尋ねたら、今は、歯が痛いと3カ月待つと。痛いんだけど歯医者に予約すると、「3カ月後ですよ」って。そうすると、こんなに小さかった虫歯が大きくなったりするじゃない。今みたいに予防の情報が少ないから。それで「みんな困ってるから、こっちで開業してくれれば本当に嬉しいんだけどなぁ」って。うちの主人と話し合いをしたんだけど、「歯医者が入ってきてくれたら嬉しいんだよ、みんなが助かるんだよ」って言われた時に、やはり医療ってのは求められたところに行くのが一番いいんじゃないかって思って、「じゃあ高田に行っちゃおうか」、なんて感じでここに決めたの。歯科衛生士は持ってるし、栄養士も持ってるし。32年前、昭和57年の7月の末に、主人と私と生後3カ月の子どもと東京から出てきて、そして今に至る。

 

陸前高田は、子どもが育つのにすごく良い環境だった

 

今は津波に流されてなくなってしまったけれど、海のそばから歩いて5分ぐらいのバイパス沿いに家があったの。吉田の3代前の先祖が、東京に行ったじゃない。東京行った人たちが、「東京から帰ってきた時にみんなで帰れる場所を作ろうじゃないか」って、みんなで松原に土地を買ったわけ。そこに夏の家を建てて、高田に来た時はそこに住み始めたわけ。家の前に曲松公園があって、子どもが家から勝手に出ても、車の通らないところだったし、それでトトトって公園に行って遊べる。本当に子どもを育てるのにすごく良い環境だったの。裸足で遊べるし、みんなが公園に来るから、自然に公園デビューできたし、っていう場所だった。うちの子どもは、そこで育った。

幼稚園前まではそこにいたんだけど、4歳になった時に鳴石団地が造成されて、上下水道完備の土地が区画されたわけ。東京に暮らしてた人って、上下水道完備が当たり前でしょ。曲松の家にいた時は、汲み取りなわけ。うちの主人が水が流れるやつに改造してたので、チャッポンじゃなかったけど、そういうの嫌でしょってなったから、ここに移ろうって。家を建てようって、鳴石団地に家を建てたの。それが28年ぐらい前。そっからうちの子どもは幼稚園に通うようになったの。それがよかった。今回津波で助かったの。松原にもしいたら全部だめだった。だからそれは、すごい良い選択だったと思ってる。

 

子どもを中学からは全寮制の東京の学校へ行かせた

 

子どもは小学校まで高田にいたんだけど、勉強する環境が足りないので、どうしようかと。ファックス予備校ってのがあって、ファックスで勉強やったりとかしたんだけど、私立のいいとこなんか受けられるわけないよ、その程度じゃ。だから、東京におばあちゃんたちがいるし、東京の学校に行かせたいということになって。たまたまエレベーターで会った奥さんが、「東京に、秀明学園っていう全寮制の学校があるのよね」って。「ええ、そんなのあるんだ」って言って、面白いなって思って家に帰ってきたら、その学校のダイレクトメールがちょうど来てたの。あの人が送ってくれたのかなって思うぐらいのタイミングの良さだったの。説明会があったので、家族で行ったら、結構、気に入って。学園長の話がすごく良くて、この人に子どもを預けてもいいんじゃないかって思えるような人だったのね。私たちは、週末とかに東京に行って、会ったりご飯食べたりって、コミュニケーションをちゃんと取るようにした。週末は帰れる学校だから、おばあちゃんのところに行って、おばあちゃんのご飯を食べて、っていうのを6年間。

 

大学を卒業して戻ってきて、今は一緒に仕事を始めてる

 

そして高校を出て、大学なんかも私は何もわからないから、自分の道だから自分で考えなさいって。子どもも自分で考えて、日本大学の歯学部にちゃんと入って。えらいなって思ったのが、9倍ぐらいの倍率があったんだけど、それを突破して、自分で選んで慶応の研修生になったこと。骨の研究を4年間やり続けた。それが3月の末で終わるって時に震災が起きたの。うちの主人、震災後にすぐにここに仮設を建てたの。5月の1日、2日には開業できたのね。だから、息子も戻ってくるってことになって、去年戻ってきて、今一緒に仕事を始めてる。

 

夢なら覚めてくださいって思った

 

ほんとにね、地震が起きた時にね、「夢かな、夢なの」って。何も変わってないんだよ、家の周りは。でも、何が起きたんだろうって。もちろん地震が起きた時は私は山の中だったんだけど、家に戻って、みんな無事で。家も無事でしょ。だけど、うちの歯科医院が海の近くだったから、主人が「ちょっと下見てくるね」って言って。すぐ帰ってきたの。「どうしたの」って言ったら、「行けないんだ。全然下に行けない。何が起きているか俺もわかんない」って。「夢なら覚めてください」って思ったわね。それは一番最初に思った。

 

みんながうちでコミュニケーションをとれた、りくカフェの原点

 

避難所に大量に支援物資が来る。そういうときはね、みんなが一斉に来ちゃいけないから、まず全部並べといて周りながら1個ずつとってもらう、ってやったんだって。そういうの聞いたときに、うちは実家が東京だったってのはすごくよかったの。支援物資を送りたいけど、どこに送ったら確実に被災者に届くかわかんないじゃない。そこで、「鹿野だ!」って。電話がついた途端に「何が欲しいの」って電話がきて、みんなに聞くと、「ズボンが欲しい」だの、「モモヒキが欲しい」だの。そういうのをみんなね、欲しがってると伝えた。物資が届くでしょ。「ズボン、来たよ」と言うと、その人が取りに来て。夏になると、ある人が、「扇風機、いるんじゃない?」「扇風機が欲しいらしい」って言うと、70台も80台も毎日、扇風機だけが届くの。あと、冬になるとコタツが欲しいってなって。「コタツが欲しい」って言ったら、またそれも20台ぐらいボンって来て、置けないじゃない。だからもう玄関っていうか庭の先に置いといて、予約した人から取りに来てもらう。その頃はだいぶ落ち着いてきたからそうできたけどね。初めの頃はね、これなんだっけ、あれなんだっけ、どうする、ああするってなって、それでみんながコミュニケーションを取れたわけ。それがりくカフェの原点。今考えると、楽しいけど大変だったね。でもみんなが喜んでくれたからね。

 

震災を経て、堅い絆で結ばれた

 

鳴石でね、ご近所付き合いは震災のおかげでほんとに良くなったよ。同じエリアに住んでる8軒分の支援物資が来るわけ。それを私がね、4月に班長だったので毎日「荷物が来ましたよ」って言うと、みんなで力を合わせて取りに行って、「はいこれ500グラムずつだよ」ってみんなで毎日分けていたわけ。そしたらすごく仲良くなって、今でも堅い絆で結ばれた感じはあるな。コミュニケーションを自然に取らざるを得ないんだ。でもりくカフェに海外の人が来た時に、なんでそういうことができるんだろうって。ドイツの人だったんだけど。「ドイツでは、もしこんなことが起きたらどうするんですか」って聞いたら、国から支援されるのを待ってるって。私たちには、もしも誰からも来なかったら家にあるものをみんなで分けたり、「私、それあるよ」とか言って、食べれるような関係があるじゃない。それがね、アンビリーバブルだって。国によって違うのかなって。

 

りくカフェでいろんなものが繋がる

 

りくカフェの面白いのは、こうやっていろんな人が来ていろんな話が盛り上がるところ。たまたまりくカフェに来て、初めて会うでしょ。例えば、「大阪でどこそこに行ったんですよ」「私もどこそこにいたわよ」「え、ウソ!」って、そのくらい身近な関係ができてるってことがこの中でたくさんあった。あと、「仮設に暮らしてるけど」と言って、「やだ、おんなじ仮設じゃないの」って、ここで話してる人もいたし。なんかここで、いろんなものが繋がるっていうことがたくさんありました。あと、「今日はアメリカから来た」「え、私もアメリカから来たんですよ」って人がいたりした時には、「今日はまたおもしろい日だね」って。あとは、すぐ帰ろうと思って来た人が、ずっとお尻に根が生えたようにいられる場所。それくらい、居心地の良いスペースみたいなんだよね。それはこの三角形の屋根の形とか、木の温もりがすごい力を出してる。住友林業さんの方が言うには、「この木の形と木の温もりはいろんな想像力と発想力を生み出してる」って。これがもしもコンクリートだったら絶対こうはなんない。りくカフェに来て楽しいなって思っってくれる人がいたら、それが楽しいの。

 

陸前高田に時々来て、伝えていくことが大事

 

大事なのは、時々来るってこと。来てくれて、「あぁここ、こんなに変わったんですね」っていうのをちゃんと実際、目で見て、それを大阪に帰って、「陸前高田行ったけどこうだったわよ」って現実をちゃんと目で見た人が伝えていくってのが、これから大事だと思う。私たちが言うよりも、他の人たちが見に来て、それを伝えるってことの方が良いってわかってるの。あと、いろんなイベントがある時に「僕たちができることあるかな」って思って来てくれること。後輩にもどんどん受け継いでくの。会社で「みんなで行きましょう」っていうのを促す役になるとかもね。それで地元で食事するのが支援なんだ。りくカフェでコーヒー飲んで帰るのも支援の1つでしょ。全国の人が来続けるってところは、そういうのに繋がってるのかなって。メッセージを残しながら、フェイスブックででも、いろいろ情報も見て、「そうなんだわ」って思いながら、「じゃあ今度行こう」って思ってください。忘れないで。

 


 

【聞き手の一言】

 

私は、陸前高田市でりくカフェを経営している吉田和子さんに聞き書きをしました。吉田さんはりくカフェの面白いところを、いろんなものがつながっていくことだと言っていました。私が吉田さんに聞き書きできたのも、つながりがあったからです。つながりを大切に、またりくカフェに立ち寄りたいと思います。ありがとうございました。

 

今田 葵

 


 

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