【ブラジル】
話し手 ── 白木 國義さん
聞き手 ── 蘇鉄本 奎
聞いた日 ── 2016年8月27日
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探求心旺盛な幼少時代
白木國義です。1919年9月19日生まれの96歳です。福岡県の朝倉郡馬田村(現 福岡県朝倉市)に住んでいました。ここは大刀洗飛行場が近くにあったところで、普通の日本の平地帯、自然地帯ですね。飛行場は山があるところにはできないからね。昔はね、部落がいくつか集まって村になっていたでしょ。そのなかで農業をして暮らしていました。今はどうか知らないけど、戦前の福岡は日本でも有数な県だったんです。その当時、福岡県には10の市がありました。10の市があった県は福岡県だけで、日本全国で他にどこにもなかったですね。
私は小さい頃から淡々としていて、物事を深刻に捉えない性格でした。だから昔から落ち着いていて、やんちゃだったということはなかったです。学校の学年末の終業式には、校長先生から素行善良と皆勤で表彰状をもらいましたね。初等科で義務教育を6年間受けて、高等科で2年間勉強をしました。勉強は、好きっていうほどじゃなかったけど、していました。わからないことや知らないことを徹底的に調べ上げるまでは気が済まなかったですね。専門的なことではなく、基本的なことは全て知りたいと思いますね。運動はあんまり好きじゃなかったです。運動神経っていうものがなかったんですね。学校を卒業してからブラジルに行くまでの8カ月間は、百姓の手伝いをしていました。
家族は両親と兄と私の4人です。父は、馬鹿正直というか、本当に将棋も指さない、博打はしないという人で、少しお酒に弱くてお酒に呑まれることはありましたけど、善良な人でしたね。そういうことで母が少し苦労したけど、まあ世間のどこにでもあることですね。母も父と同じような人で、優しくてまじめな人でしたね。兄は私と全く似ていなかったですね。やんちゃではなかったんだけど、社交的で誰とでも話をしたりして、明るい感じの人ですね。兄は私より歳は1つか2つ上だったけど、昔の日本のお芝居の話なんかも、とても詳しかったですよ。
ブラジルへ希望をもって
移民としてなぜブラジルに行くことになったのかといいますと、ブラジルに行って出稼ぎをするためですね。日本は当時貧しくて、1つでも多くの食べる口を減らすために、国策として移民を送り出していたんですね。そういう政策をすることで、日本のみんなの生活が少しは変わるんじゃないかということで、日本は外国にどんどん移民を送り出していたんですね。当時は満州への移民も多かったんですけど、私は満州には全く関心がなかったです。満州に行くとなると、戦争のための武装移民ってことになるんですね。私はアマゾンに興味があったんで、ブラジルは少し良いなと思っていました。兄が、ブラジルに行くことに一番関心がありました。だけど父はあんまり関心を持っていませんでしたね。反対していたってわけではないけど、賛成はしていませんでしたね。
日本を離れるさみしさや不安はあったけど、淡々として深く考えたりしませんでした。お金を貯めたら日本に帰るつもりだったので、当時は不安というよりは希望のほうがありましたね。
ハワイ丸乗船
私が住んでいたところから門司までは、鹿児島本線の汽車でいきました。門司で降りて、そこから連絡船に乗って15分くらいで下関ですね。またそこから山陽線の大阪まで行く夜行列車で、神戸教養所(神戸収容所)がある神戸三宮まで行きました。夜通し走って12時間近くかかりましたね。
教養所には1週間いました。ここではブラジルに行くための予備知識を与えられましたね。健康診断とかも受けたりしました。教養所にいる間で一番印象に残っていることは、日本の武将で有名だった楠木正成のお墓を、遊び半分で訪れたことですね。今上陛下の満1歳の誕生日のお祝いが教養所であったのも、よく覚えていますね。
ブラジルに向かったときは1935年で、数え年で17のときでした。私が乗った船はハワイ丸といいます。乗客は904人いました。こういう長い航海では必ず死人が出るそうなんですね。しかし私たちの航海では死者が1人も出ませんでした。逆に航海中に2人の赤ちゃんが産まれて、乗客は906人に増えましたね。12月26日から2月20日まで、だいたい2カ月かかりましたが、事故もなく順調にブラジルに行くことができました。
ブラジルまでの長い航海
航海中は他の乗客と世間話をしたりしていましたね。神戸を出発してブラジルに着くまで、船の中でポルトガル語の講習なんかもありました。移民船には移民の人たちを取りまとめている輸送監督がいて、その輸送監督の助手の人がポルトガル語の先生でしたね。
船の一番の行事は赤道祭でしたね。昔は帆船だったけど、赤道は比較的風が吹かないんですね。そして風がないから船が止まってしまうんですね。そういうことじゃ困るから、赤道を通るときに無事に通過できるようにお祈りをしようっていうことが、赤道祭の始まったきっかけだそうですね。赤道祭には運動会、仮装大会、剣道大会、相撲大会などがありました。私は運動をする体質じゃなかったから参加はしなかったので、ずっと見ていました。船での仕事は、夜に船の中の巡回をみんなで順番にしていました。3人くらいでひと組になって、毎晩、交代していましたね。
私たちが乗っていた船は貨物船だったので、荷物を降ろしたり載せたりするために、いろんな港に寄りましたね。まずは香港、シンガポール、コロンボを通ってからインド洋を10日近くかけて横断しました。そしてモンバサを通ってアフリカ沿岸を南下してダーバン、ケープタウンに入港しましたね。そしてまたケープタウンを出港して、大西洋を10日くらいかけて横断しました。
立ち寄った場所の中でも特に印象に残っている場所はシンガポールですね。両親と私の3人で上陸して町を歩いていたときに、私より少し若いくらいの黒人が私のところに来てアブラッソ(抱擁)をしてきてびっくりしましたね。シンガポールは当時イギリス領で、イギリス人にいじめられていたって言ったらおかしいけど、イギリス人じゃない私みたいな日本人をみて安心したんでしょうね。
私たちがブラジルのサントス港に着いたときは、10日もかけて大西洋を横断してきたわけですから、やっと着いたなって思いがありました。とても長い旅でしたから安心しましたね。
ブラジルの大地
ブラジルのサントス港に着いてからは収容所に入らずにすぐにパラナ州のファゼンダ(大農場)に配耕されました。移民会社が、どこそこの場所に行けって勝手に決めるので、自分たちの行きたいところには行けなかったですね。配耕されたそのファゼンダでは2、3年間働きました。日本から来てファゼンダに入ったら、1年間はそこで働く義務があるんですね。その義務が終わってから一時ばかりは、まだそこで働いていましたね。
初めてファゼンダをみたときは、あまりの土地の大きさにびっくりしました。そして私が行ったファゼンダは石山が1つもなくていいところでしたね。場所によっては石山がたくさんあるんですけどね。土地そのものは豊饒なものでしたよ。だけど最初に原始林を伐採して、焼き払わないといけないんですね。ファゼンダとして使うために原始林を切り開いていくんです。原始林の樹は直径1メートルくらいあって、切り倒すのがとても大変でしたよ。そうして切り開いてからやっとコーヒーを植えられるんですね。
そして普通はコーヒーを4メートル毎に植えていくんだけど、私たちのファゼンダのように土地が良いところは、それより80センチ広い4メートル80センチ毎に植えていました。広くとっている分、大きなコーヒーの樹になるんですね。コーヒーの樹が大きくなったら、樹と樹の間がふさがってトンネルみたいになるんですね。そうして雨が降ったら地面の赤土がベタベタになってお日様の日差しも入らないから、収穫のときは地面で滑らないように歩かないといけないので大変でした。
ファゼンダで一緒に働いていた人はブラジル人でした。言葉が通じなかったんだけど、通じないものは通じないからね。通じないっていっても外国人ばかりの場所に来たんだから。しょうがないから言葉を半分真似したり、身体で手真似足真似をして意思表示をしていました。そうするとお互いだんだん勘で通じてくるんですね。
苦労したコーヒー作り
配耕されたファゼンダでの2、3年が終わってからは、ファゼンダにいたときと同じような仕事を個人的にしていました。ブラジルに来て7、8年して、自分たちの土地を買ったときはうれしかったですね。そこも原始林だったから切り開くのに苦労はしたけど、自分たちの土地だって思いがあったから頑張れましたね。
コーヒーの樹に実がなるまで4年かかるので、それまでは間作をしていました。トウモロコシとか綿とか落花生などのいろんなものを、コーヒーの実がなるまでの間に作っていましたね。だからコーヒーの実ができるまでは、それを作って売って生計を立てていました。
コーヒー作りでは天候がすごく影響していました。毎年降りるわけじゃないけど、強い霜が降りてしまうとね、コーヒーの樹が大きくなっていても、コーヒーの樹が寒さに弱いから、根元から焼けてしまってダメになるんです。そうなったらしょうがないから根元から切って、新芽を出して実がなるまで、また4年間待つんです。その間にまた霜が降りたら、同じことを繰り返すんですね。それと長く雨が降らないときは、コーヒーの樹が乾燥してしまうんですね。ある程度大きくなっている樹は乾燥なんかには結構耐えるんですけど、霜には全然耐えられないんです。だからやっぱり私たちが一番怖いのは霜でしたね。
新聞は知識の泉
日本のことは『サンパウロ新聞』の創刊号から読んで知っていました。私がいたところにサンパウロ新聞社があって、新聞は郵送してくれていました。日本のことが気になって、日本のことだけを知りたいから読んでいたということではないですね。新聞はどこでも同じだけど、物事を新しく聞かせてもらって、いろんな知識になることを得るために新聞を読ませてもらうんですね。社会情勢を知るためにですね。やはり新聞を読ませてもらえなかったら、世界がどうなっているだとか、どこで戦争が始まっているだとかが分からないですね。そういうことを全般的に教えてくれるのが新聞だと思いますね。
家族は一番大事な存在です
昔はブラジルにいても、私はあくまで日本人なんだから、ここは外国だって思っていました。だけど私は何十年もブラジルに暮らさせてもらっているわけだから、今は外国って感じはしないですね。今、日本人でもブラジル国籍に帰化している人が多いですけど、私は日本国籍を捨ててブラジルに帰化するってことはとても考えられないですね。もちろんブラジルにいるわけだから、ブラジル国籍に変えると良いこともあるんだけど、帰化していなくても外国人だからといって大きな分け隔てを感じるようなことはないですね。ブラジルは全てがマンマンデー(慢慢的─ゆるやか)なんですね。けちけちしていなくて、おおざっぱだということですね。ブラジル人は日本だけにというわけではないけど、民族的に寛大な国民性があるんですね。今、ブラジルに日本人がこんなに多いのも、国民性が良いからだと思いますね。
ブラジルに来てからの生活をふりかえると、家族みんなが、ずっと健康で過ごせたのが良かったですね。母が盲腸で手術はしましたけど、元気でした。やっぱり全然違う外国に来てしまったんだから苦労はありました。だけど両親と私と兄と4人でブラジルに来ました。家族のおかげで苦労だと思わなかったですね。だから私にとって家族は一番大事な存在です。やっぱり有形無形において、父親というものがいたら違いますね。実の親が実在したら幸せですよ。私はそう思いますね。今は両親と兄が同じ墓に入っているということが私の心の拠り所になっています。
生きさせてもらっていることに感謝
ここの老人施設ができたのは、行くところがなくなった日本人を救済するためですね。というのも、戦争が始まってブラジルと日本との国交が断絶したんですね。そのときに私たちは迫害を受けたりしたということはないんだけど、サントスの海岸線にいたずいぶん多くの日本人たちが、ブラジル政府の命令で、居住していた場所を即時退去させられたんですね。それでそこにいた人たちが行くところがなくなってしまったんですね。そういうような困っている人たちを救済する目的でできたのが、社会福祉法人の救済会ですね。その救済会が経営しているのが、ここの憩いの園なんですね。
私は1995年に憩いの園に入所しました。大きな怪我を1回したんですけど、その怪我以外は病気の1つもせず、ずっと元気に過ごせていますね。私が入所したころは、みんな、ここの施設で何かしらの仕事をして手伝っていたんだけど、今は仕事がないから、何でもできることは自発的にしないといけないと思いますね。あれをしてくれと言われなくてもね、自分からやらなくちゃいけない。足が悪くなる前は毎日、門番をしたり、草をむしったりしていました。
私は今、ここにいさせてもらって、事故で怪我をした時も助けてもらって、お世話をしてもらっているんですけど、私の心境としては、今、ここで生きさせてもらっていることに感謝の気持ちしかありません。
【聞き手の一言】
僕はブラジルにいらっしゃる日系移民一世の白木國義さんにお話をうかがいました。白木さんは本当に誠実で矍鑠としている方で、お話をしているうちに、白木さんのように、自分に素直になって生きていきたいと思うようになりました。白木さんとの出会いが僕に大きな影響を与えてくれました。この作品を読んでいただくみなさんにも、白木さんの素晴らしい人柄に触れてもらい、何か心に響くものがあればと思います。
また、この聞き書き作品を読んで、1人でも多くの方に、ブラジルでたくましく生き抜いてこられた白木さんのような日系移民がいることを知ってもらい、そして関心を持っていただければ嬉しいです。
(本来聞き書きとは、聞き手の人生を丸ごと聞き、作品にするというものですが、僕が聞き書きをさせていただいた白木さんの作品では1940年代半ばから1990年代半ばまでの50年間についての記述が欠けてしまっています。
聞き手としてこのようになったことは心残りではありますが、再度聞き取りをするのは困難で、補足ができないことをどうかご了承ください。)
蘇鉄本 奎