【マレーシア】
話し手 ── 安部 光彦さん
聞き手 ── 山本 美紗
聞いた日 ── 2016年9月3日
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僕も虐待を受けていた
安部光彦。1965年7月26日、大分県生まれ。今年51歳です。子どものときの家族構成は父親と男3人兄弟ね。母親は僕が生まれてすぐ離婚してて、父親は新しい母親と一緒に山口県の美祢市へかけおち。2歳から4歳ころまで僕と兄は孤児院にいた。父親だけでなく新しい母親も、子どもを育てるの、面倒くさかったんだろうね。でもその後、孤児院から引き取られ、4歳から幼稚園に上がる6歳まで、その美祢市で再び父親とその新しい母親に育てられた。でも当時の両親は酒場を経営しながら荒れた生活をしていて、おばあちゃんがその生活を見かねて「とにかく大分県に帰ってきなさい」って父親に言い聞かせた。その後、大分のおばあちゃんのもとに帰ってきた。大分県で小中高と育った。父親は小学校5年のときに死んだ。死ぬ直前に新しい母親とも離婚したんで、おばあちゃんに育てられた。美祢市にいた4歳ころから父親が死ぬ直前の11歳まで、僕も父親から虐待を受けていた。
ガキ大将だった子どもの頃
小学校の頃は、どちらかというとガキ大将系だね。威張ってた。いじめてた。今も後悔する、その子に会ったら謝りたいって思うようないじめをしたね。
中学のときは器械体操をしてた。県大会で優勝するぐらい、かなり頑張っていた。
高校の時は音楽部。音楽部には珍しいちょっとツッパリだった。家庭環境も複雑だったからね。でもケンカとかはしない。たむろしない1匹オオカミ的な。高校3年のときは学校帰りに毎日麻雀をやってた。先生に相当、目をつけられてた。進学校だったからね。入った頃はかなり成績がよかったんだけど、卒業するときは500人中450位とか。
遊んでたというよりはバイトをしてた。自立したかったんだよね。お金はすぐ使ってたけど、東京に行くお金は貯めた。
勢いで東京やフランスに
卒業して友だちとバイクで、鞄1つで東京に行った。友だちはそのまま郡山の日大に行ったね。僕は「さて、新宿に着きました」って感じよ。それから広告とか見て、銀座でバーテンダーのアルバイトをやった。
「愛の讃歌」を歌ってる、エディット・ピアフっていうフランスのシャンソン歌手が好きでね。「フランスの酒場でピアノを弾きたい」って夢があって。1年くらいやってお金を貯めて、フランスに行ったんだよね。フランスで暮らそうって。もう33年前だね。勢いって感じだよね、何も怖いものがないからね。それでフランスに半年くらいいたかな。
ピアノ伴奏をしながら飲み歩く毎日
ピアノが好きだったから、もっと音楽の勉強をしたほうがいいなって思って、東京に戻って尚美学園に入った。2年間、勉強しようって思ってたけど、結局、よく朝まで飲み歩いてたね。シャンソン歌手が来てくれるお店の伴奏もしてた。それがきっかけで六本木や銀座のお店で伴奏の仕事をしてたね。当時はバブル景気ということもあって、ものすごい派手な生活していた。超感じ悪いよね。
そういう生活をしてたけど、心の中では、なぜか正義感が強かったんだよね。あと贅沢に飽きちゃった。毎日のように朝方まで、ときには昼まで飲んでて、本当に死ぬんじゃないかと思った。そのような中、お客さんに誘われたことがきっかけで、26歳ごろから定期的に秩父に座禅に行き始めた。今、思えば心のどこかで当時の生活に疑問を持ち始め、心を清めたかったんだろうね。
福祉の道を歩もうと思った28歳
違う人生を歩もうと思ったのが28歳。それで「これまでとは180度違う人生ってなんだろう」って思ったときにひらめいたのが、福祉だったんだよね。最初に面接に行った老人ホームはすぐに面接で落ちたけど、2回目の挑戦で受けた知的障害者の施設は資格の条件もなくて、受かったんだよね。東京都が東京都知的障害者育成会という社会福祉法人に委託している「働く知的障害者のための通勤寮」でね。知的障害者の人が社会で働いていることに驚いたし、たまたま面接に行ったときに、そこの職員が1人ひとりの知的障害者のために「あなたは、こんなことができなかったけど、こんな風にできるようになりました」というような内容が書かれてある賞状を本人たちのために用意しててね。それを見てすごい感動して「給料、いらないから、働かせてくれ」って言った。後から聞いたんだけど、採用側のそこの通勤寮長は「資格も経験もないただの兄ちゃんだけど、その反応のよさで決めた」って言ってたね。そこで非常勤で3年半くらいいた。
楽しそうに仕事をするから認められたのかな
働き始めて3年半後、世田谷区に日本で初めての知的障害者就労支援施設ができることになり、そこで常勤職員の募集がかかったの。そしたら通勤寮長が僕を推薦してくれたの。「安部ちゃん、やってみたら」って。それで世田谷区の常勤採用に。そのときも資格はなかった。すごいでしょ。仕事を楽しそうにするからそこを買われたのかな。今ではそこは障害者の就労支援として有名な施設になってるけど、当時はまだ案の段階で、どういう施設にするかのところから関われたのはラッキーだった。当時の世田谷区は、1年に2人くらいしか施設から就労者を出せていなかったんだけど、この施設は2年目からは毎年20人は就労者として外に出せるようになったね。
日本の福祉への不満から青年海外協力隊へ
ある日、いつものように秩父まで座禅に行った帰りの西武池袋線の電車のつり革広告で、「青年海外協力隊」という文字を見たんだよね。そこで「海外でボランティアかぁ、でも青年じゃないしな」って思ったけど、よく見たら「40歳までOK」って、その広告に書いてあった。そしてすぐに応募を決心した。なんでそんなことを思ったかというと、当時の日本の福祉の現状に不満があったから。当時、日本は社会福祉事業法が社会福祉法に代わって、福祉事業の受託競争が激しくなり、委託事業をとれない組織の死活問題という状況下に多くの事業体が陥っていた。特に中堅職員には大きな負担がかかり、うつ病を発症する人などが増えた時期でもあって。委託事業獲得競争に負けないよう四苦八苦する多くの福祉事業体で、肝心な福祉サービスを受ける障害者自身のための福祉がなおざりにされていくような、日本社会全体の雰囲気に「それは違うでしょ」って。そして世界では2003年にイラク戦争が勃発。当時のアメリカが掲げる正義に納得いかなかった。なんか変に正義感だけあった。そういう内外で起こった当時の様々なことが協力隊応募のきっかけとなった。
マレーシアのNGOに配属
それで2004年の7月にマレーシアに来た。知的障害を持っている小中高生の養護学校と、卒業後の就職や社会参画を目指す知的障害者のための作業所が併設されているNGOに配属された。2年契約だね。マレー語も英語もほとんど上手にしゃべれなかったから苦労したよね。マレーシアの普通の学校にも特殊学級って一応あるんだけど、特殊教育をきちんと勉強している先生がいない。ジョブコーチといって、障害を持っている人たちのために、実際の会社内でどのようにOJTをコーディネートし、本人の就労までの流れをどのようにサポートするのか、その論理や実践を現地のスタッフに教えるトレーナー兼ソーシャルワーカーとして入ったのね。まあ、日本でそういう仕事をしてたんでね。
無意識にストリートチルドレンを探すようになった
2004年の8月に重要な出会いがあった。たまたまある日曜日、郵便局の前に4歳と2歳くらいのストリートチルドレンの兄妹がいた。物乞いをしてたのを僕は見てて。雨雲が向こうから来てて、「大雨になるな。どうするんだろ」って思いながら通り過ぎたのね。ふりかえったら女の子の目がすごい膿んでてね。昔もバリ島とかインドネシアに行って、ストリートチルドレンに物をあげないし、助けないって決めてたのにね。でも気づいたら抱き抱えてたね。「これは死ぬな」って思って。言葉もわかんないから助けを求めたら、イスラム教徒の夫婦が一緒に来てくれた。2件、病院を回ったけど日曜だったから休みだった。土砂降りになってパン屋さんのビルの陰に入ったのね。パンと牛乳をあげて、明日なら福祉局が開いてるから連れて行こうと思ったのね。今、思えば大失敗だったんだけど。必死に時計の針を指して「3時にここで会おう」って説明したんだよね。でも、その子たちは、次の日、そこには来なかった。時刻を使って約束をしても、教育を受けていない彼らにはわかるはずがない、と後になって気づいた。
それから無意識にストリートチルドレンを探すようになったかな。まずはお話をしてみる、定期的に声をかけるということを、自分に課していた。とにかく接することで何かわかるかもしれないと思ってた。
運命的な出会い
そしたら10月にまた1人のストリートチルドレンに出会った。コタキナバルの街で買い物をしてたんだっけな。ストリートチルドレンには大まかに2種類あって、物乞いなどをやらされているにしても、自分が何をやっているかわかっているストリートチルドレンと、状況がわからない死んだようになってるストリートチルドレン。また、貧困にも自ら招く貧困と、余儀なくされる貧困があって、余儀なくされる貧困の一番ひどいのが親がいないこと。その子は明らかに親がいなくて自分で何をやってるかわかってなかった。そういう子に近づくことに対する恐れはあった。やっぱ向き合うの、面倒くさいじゃん。本当にかわいそうだと思うんだけど。そんなことで悩みたくないってのがあったんだけど、引き込まれたね、その子には。そのくらい真っ暗闇というか死にそうだったね。運命的な出会いだね。
その子は目の前にコカ・コーラのコップを置いてて、お金を入れる人がいるんだけど見向きもしない。全く反応しなかったのね。それで英語とマレー語で一生懸命話しかけた。「お父さんいるの?お母さんいるの?」って。でも一切答えなかった。そのとき、この子は孤児だなって感じた。それでも立ち去ろうと思えなくて。どうやったらこの子とコミュニケーションをとれるかなとずっと考えて、ふとポケットの中にあった5セント硬貨を取り出して、それがくるくるっと回るように指ではじいてみたんだよね。そしたら、たまたまそのコインが膝を抱えている彼のその膝の間で止まって、回り始めたんだよ。そしてその子はそれをじっと見てた。僕はすかさずマレー語で「見て、見て!」と彼に言ったらね、僕の方にはじめて顔を上げて、目と目があったんだよ。そこで、マレー語で「僕と友達になってくれる?」と聞いたら、彼は「うん」って答えてくれたんだよ。その瞬間は本当に忘れられない。ものすごい感動と喜びが突然自分に向かって飛び込んできたんだよ。実は僕のマレー語も全部最初からわかってたんだよね。
これはたぶん僕にしかわからない、他の人に説明することは不可能なことだと思うんだけど、一言で言うなら、そのときの彼の目の奥に「命の輝き」を見ちゃったんだよね。そのときの「うわー」って湧き上がる得体のしれないもの。こんなどん底にいる子どもの中で、その命が目の奥に「光」として輝いてた。「命」という目で見えないものを、その子の中に確かにはっきりと見た。「これが命なんだ。命の正体はこの輝き、この光なんだ」、そんな感じ。何という素晴らしさ、何という驚き、今まで経験したことのない歓喜に突然襲われた。で、その命をなぜか本当に愛おしいと思った。
その一瞬で僕は「この子のためにマレーシアに帰って来よう」と思った。仕事を全部やめて、こういう子たちの支援をしようと心から思った。一瞬でね。
決心というのが向こうからやってきて勝手に入ってきた
自分で決心したとかじゃなくて、決心というのが向こうからやってきて、勝手に入ってきちゃった感じ。「この命に本当に向き合っていきたい」って思ったね。恐れもなく、この子のために自分の人生を生きようって。
それで協力隊が終わって、日本に帰って退職手続きしてきた。一文無しになってもいいと思ってた。僕のために有給休職制度まで作ってくれた所長、理事長には本当に申し訳ないと思ったし、彼らもあきれていたけれど、最終的には「安部さんの決意は変わらないわね」って言って許してくれた。それで退職して本当に独り身で来た。今、思えば、そんな決心がなぜできたかというと、子どもも奥さんもいなかったから。それが一番大きいと思う。そういう状況があったら、たぶんこういう決断はできなかったと思う。
尊敬している人が信じている神様を信じようと思った
こういう子どもを支援する人たちって、どんな人なんだろうって考えたら、キリスト教の人だろうなって思った。いろいろ日本人会とかを探していたら、ロリスさんって人に出会ったのね。その人が不法移民の子どもたちを自宅に呼んで、食事を与えて勉強を教えてた。その人がクリスチャンだったんだよね。本当にすごい人で喜びに溢れてやってるわけ。マザーテレサみたいなもんだよね。こんな人が世の中にいるんだって非常にショックだった。
僕はキリスト教嫌いだったのに、ロリスさんは一生懸命、僕に神様の話とかするわけよ。「ロリスのことは尊敬してるし、信じられるけど、神様は信じられない」って言ったら「あべ、それは違うんだよ。私は人間だ。あなたにとって良い人に見えても、自分の家族に何かあったら、あなたを幻滅させるようなことをするかもしれない。だから私じゃなくて、私を動かしている神様を見ないと私を理解できないよ」って。この人はやっぱり言うことが違うなって。それを聞いて動機が不純なんだけど、この人をここまで動かすその神様というやつを信じたいと思った。その神様を信じることができれば、僕は人生を全てあのとき路上で出会ったような子どもたちのために捧げることができるなって直観的にわかった。名声とかそういうのを抜きにして、子どもを本当に心から支援できる人間になるためには、この人が信じているその神様にすがるのが絶対に一番だなって。そのときに神様を100%信じてたわけじゃないけど「信じます」って言った。信じる人生を生きたいって。そしたらすぐ洗礼を受けたくなっちゃって。10月にそのことがあって4月に洗礼を受けた。それでますます怖いものがなくなった。もう神様がついてるって感じだよね。
奥さんもクリスチャンで弱い者に寄り添える人だった
うちの奥さんは若いころからクリスチャンだったんだよね。僕が世田谷区の就労支援センターで働いてたときの同期だったの。奥さんも音楽が好きで仲が良くて、協力隊のときにマレーシアに来たこともあったり。彼女はアメリカに行って音楽療法の勉強もしてて、弱い者に寄り添える人だった。僕は、そんなうちの奥さんに対してもキリスト教批判をしてたのに、なんと彼女がマレーシアに遊びに来たときに、その僕がクリスチャンになってたから、びっくりしてたね。
それで日本に帰ったときに、日本の教会に一緒に行ったり、マレーシアでの出来事などを話しているときに、なぜか、もしかしたらこの人が結婚相手なんじゃないかって、今まで全く思いつきもしなかった思いが出てきてね。2006年の6月に日本に帰国し、退職手続きを済ませ、10月には不法移民の子が来る故郷を見たいとフィリピンのミンダナオ島を回ったのね。それで、そのとき神様にお祈りしてたら「プロポーズしなさい」って言われた気がしてね、そして今に至ってる。今、思うに、色々あったけど、これこそ最大の奇跡かもね。
CFFとの出会い
不法移民の子の支援をしたかったけど、不法の人々を支援することは法に背くことだった。だから同じような境遇にいる村の貧困の子どもたちを調査してみたくなって。コタキナバルを拠点にして色んな村を調査する計画を立てたんだよ。そんなことをやっているうちにCFF(Caring For The Future Japan)の話が舞い込んできた。協力隊をやってるときに、Tさんって、今回のツアーに参加してる人と一緒にCFFフィリピンに訪問したことがあってね。学生がボランティアに参加して、その参加費で孤児院が運営されているってすごいアイディアだなって思って、CFFには興味があったのね。創設者は二子石さんという人なんだけど、「すごいな」「会いたいな」って思って、2006年に協力隊が終わり、帰国、退職手続きをとってからすぐに会いに行った。そしたらそのことがきっかけで交流が始まり、その数カ月後、マレーシアの知人のNGOの活動を手伝っていた僕に、二子石さんが会いに来てくれた。そのときたまたま「CFFでディレクタートレーニングをするから来てみないか」って声をかけてくれた。その内容に興味を惹かれ、翌年2007年3月にCFFフィリピンに行ったんだよね。そこで40日間、二子石さんと話してて、「マレーシアでCFFをしないか」って話になったの。でも僕は「それは無理だ」と。もともとそういうつもりはなかったし。大きいことをしたいんじゃなくて、1人や2人の子と関わって神様に仕えたいって思ってた。
話は前後するけど、協力隊時代の2005年に、ロリスさんから「素晴らしい1万8千坪の土地があるから、見に行かないか」と誘われて見に行ったことがあった。そのときすでに子どもの支援をしたいと決意をしていた僕のために「この土地を買って子どものために何かしないか」っていうんだよね。全然無理だよね。お金もないから、まずは買えない。そのときはその話はそれで終了。
ところが、それから2年後の2007年、「CFFをマレーシアでやらないか」という話があったことを聞いたロリスさんが「あべ、あのときの土地、まだあるんだよ」って。ロリスさんもお金がないから、おばさんに買わせたんだって。「子どもたちのためであれば絶対お金が集まる。あなたがこの土地を買いなさい」って言うんだよね。普通に考えて無理だと思ったし、たとえその土地が手に入ったとしても、大きな事業をやる気持ちも自信もなかったし、何度も断ったんだけど、ロリスのことをすごく尊敬してたし、そこまで言うならってね。毎日どうするべきか神様に尋ねた。それでやることにしたね。私の奥さんはまだ日本で働いていたから、現在のCFFマレーシアがある村でまだどうなるかわかんないけど、先に1人で暮らし始めた。
奇跡が重なって土地が購入できた
そしたら奇跡が起きたんだよね。日本の自分の友だちや奥さんの友達、それから教会の人たちに声をかけた。子どもの家をやる土地を購入するのに1千万円も必要だったんだけど、1年で集まっちゃたんだよね。200人くらいの人が寄付してくれた。マレーシアでの就労ビザもないのに、その土地が観光ビザのままで買えたんだよ。マレーシアでは本来外国人は買えないんだけど、そんなマレーシアの中でもサバ州には外国人が買える土地があって、たまたまその土地がそうだったの。偶然が重なったんだよね。それで1千万円が集まる前に、すでにその土地にバンブーハウスを建てた。日本からのワークキャンプという形で学生ボランティアを募集して、整地から周辺整備事業を始めたんだよね。そのうち、就労ビザがないことが後々大きな問題になることがわかり、就労ビザの申請をし、2009年にやっととれた。今、思えば3年間ビザなしで土地を買って、NGOを設立して、事業を始めて、奇跡的にそこまでやれちゃったんだよね。
不安もあったけど周りの動きで決心がついた
僕は障害者の支援はしてたけど、子どもの支援はしたことがなかったから不安だった。それからNGO申請はしたが、「本当に認可されるのか」「やっぱり難しんじゃないかな」とか、あまりにも経験も知識もない無知な自分自身を知っていたが故に迷い、不安に思った。でも路上で出会ったあの子のことを思い出しては前に進むことだけはやめなかった。そして自然に人が集まってきて基盤が整えられていったんだよね。今、思えば予期せぬ多くの人たちのサポートのおかげで1つ1つの課題がクリアーになっていく中、「本当にCFFマレーシアをやっていこう」という決心がゆっくり心に落ちていったという感じ。奥さんも数カ月後には来たのかな。一軒家でふたりで雨水をお風呂にして2年暮らしてた。僕の奥さんは、今でもそのときの生活がトラウマになってるくらい、不便で大変な生活だった。「あれを思い出したら、どんなところでも暮らしていける」って今でも言ってるよ。その後、奥さんは2009年の5月に娘を出産して、半年くらい日本にいて、6カ月後にマレーシアに戻って来た。そのときにはCFFのキャンプも軌道に乗り始めてたんだよね。
子どもたちがCFFの理事や理事長になることがゴール
子どもたちはインタビューをしっかりして受け入れるね。親と子どもを切り離すとか、甘やかすこととかはしたくないから、親から愛情を受けられない子どもを優先的に入れている。受け入れた当初の子どもは、しつけは全くと言っていいほどされてなく、不潔で30分も集中力がもたない。「あなたは愛されるために生まれてきたんだよ」「神様は絶対にあなたを見捨てない」「いいときも悪いときも、いつも神様はあなたを見ている、守っている」って。普通の施設みたいな職員のいうことを聞く子どもというよりも、神様のいうことを聞こうとする姿勢。私たちはいつも一緒にいれるわけじゃないけど、神様はいつもあなたと共にいるんだよって、そういうポリシーを大事にしてる。そうすると掃除をするとか相手を敬うとか、そういう些細なことが大切だって理解していく。しつけとか精神的なこと以外にも、ゴミ捨ても交代でやって、生活に必要な訓練をしながら勉強もする。
今、9人が施設にいて、多くても20人までしか受け入れない。1人ひとりを本当にていねいに育てる。できれば大学に行かせたいね。そうじゃないケースはオーガニック農業の専門技術をつけさせるとか。このCFFの「子どもの家」の子どもたちが将来社会で成功して、CFFの理事や理事長になることがゴール。あの子たちにとって故郷なんだよね、CFFマレーシアは。だから子どもたちをしっかり愛して、ここを大切にしてくれるように育てる。もちろんいけないことをしたら厳しくもするしね。愛することは生易しいことではないからね。
全ての根源は僕自身が孤児院にいたこと
全ての根源はやっぱり僕自身が孤児院にいたことかなって思う。子どもたちの気持ちがよくわかる気がする。また、子どものときに自分がわからなかったことで、大人になった今、気づいたこともあるよね。
マレーシアの国を変えるのはマレーシア人
村の人たちについて、一番、思うのはモラルの低下。もちろん村人の全部ではないけどね。2020年に先進国化を目指していなければ別に頑張らなくてもいいと思うけど。国として発展していく目標を持ってるから村の人は取り残されちゃうわけ。そこまで情報がいかないし。昼間から飲んだくれて、子どもを学校に行かせられない。虐待や父親から子どもへのレイプだって全然珍しくない。働かずに飲んだくれているような大人たちを変えることはまず無理。もう沁みついているからね。自分で気づくしかないし、そんなところに時間は使いたくない。だから子どもたちの育成をする。マレーシアの国を変えるのは現在の子どもたちをはじめ、次代を担うマレーシア人。
未来をケアできる人になってもらいたい
だから100年後の村のことも考えられる人になってほしい。Caring for the future(CFF)とは未来をケアするという意味なんだよね。青年たちに、子どもたちに、自分をケアし、他人をケアし、環境をケアし、社会をケアし、そして、未来をケアできる、そんな人になってもらいたい。それは僕の心の中から生まれてきたものだと、これまで思っていたけど、最近、思うに実は、マレーシアで出会った多くの子どもたちが、私に与えてくれたミッションなんじゃないかなって。なぜなら、子どもたちを見ていると、本当の意味での人間の希望とは何かということを感じることができるから。
僕ら大人は、親が子どものために生きるように、未来の基盤である若者や子どもたちのために生きていくことが、最も幸せな生き方なんじゃないかって思う。
【聞き手の一言】
この作品は、話し手である安部光彦さんが代表であるCFF(Caring For The Future Japan)が主催する、第17回マレーシアスタディーツアー(2016年8月31日~9月8日)にて聞き書きをしたものです。安部さんは作品からもにじみ出る人柄のように、とても優しく真摯な方でした。安部さんからお話をうかがい、私は国際協力についての考え方が変わりました。支援をするということに不安を抱えている方が一歩踏み出す勇気になり、国際協力に関心がない方が関心を向けられるきっかけになることを願って、この作品を普及していきます。
山本 美紗