【陸前高田】
話し手 ── 佐藤 一男さん
聞き手 ── 大槻 淑子、古賀 真知子
編集者 ── 小井手 祐子
聞いた日 ── 2012年8月17日
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親父と遊んだことは1回もない
名前は佐藤一男。1965年11月16日生まれ。今年46歳。本籍地は岩手県陸前高田市米崎町字脇ノ沢6番地。被災するまでの住所です。俺が生まれたときには俺の祖父、祖母、父、母。俺が長男で、学年で2つ下に妹。また学年で5つ下でもう1人妹がいます。ばあさんはおとなしい人だから、ほとんど印象ないんだよな。妹2人とは今思えば仲良かったんだけど、思春期はそれなりにいがみ合いもした。父は漁業。まぁ自営業だね。一番イメージが近いのは、ちっちゃい町工場の社長って感じかな。ずっと家にいた。朝が早いし、夜も遅いんだけど、3食メシ食うときは一緒にいたし。俺が生まれたときは牡蠣(カキ)はやってなかったんだな。俺の印象に残ってるのは、海苔(ノリ)養殖とわかめ養殖。あとちょっとだけ海鞘(ホヤ)の養殖に手をだしたり、帆立(ホタテ)養殖に手を出したかな。でも基本はわかめと海苔。あと若干畑を借りてビニールハウスを何年かやってた。
親父と遊んだことは1回もない。保育園に迎えにきてくれるのはじいさんだし、ご飯つくってくれたのはばあさんだし、親父とお袋は仕事だった。小さかったから仕事に行ってるっていう感覚はなかった。親父とお袋はいないという感覚しかない。親と遊んだ記憶はないけど、同級生の友だちと浜に行くと、仕事してるところに行けるわけさ。親父が牡蠣の仕事してる脇で、魚釣りしてるってのがあったしね。遊んではくれないけど、親がちゃんと仕事してるのは見てるし、仕事の合間に話しかけてはくれたな。
小学校、中学校では浮いた方だった
小学校、中学校では浮いた方だったかな。親父の影響かはわかんないけど、変な子であったのは確かだ。いじめる側といじめられる側の両方に同時に立ってたような記憶がある。うちらの頃って絶対的にいじめられるやつって、そんなにいなかったからな。空気読めない感満載なんで、生徒会長や学年トップクラスの成績を取るやつは、俺を非常に嫌ってたっていうか、嫌がってたっていうか。でも今みたいに陰湿ないじめじゃなかったな。
授業中、先生から嫌がられる質問をする生徒だった
中学校の頃なんかは、社会科は大っ嫌いになって。一番最初は「何の役に立つんですか」から始まった。理科とか数学って、社会に出ても役に立つってイメージできるわけさ。歴史って雑学として覚えててもいいけど、授業でわざわざやるほどのものかっていう。それをつい先生に言ってしまって、何か納得させられない言葉で怒られた。で、その先生も社会科もすごいやんなって、ぜってい誰が勉強してやるかっていう。好きな科目は理系。数学の授業中、数学の教科書は開いてるんだけど、先生の教えてる所じゃない所を開いている生徒。高校1年の2学期の中頃に、数学の教科書を自分で完了させてた。質問の内容がやっぱ先生から嫌がられる。「この数学の公式は何の役に立つんですか」っていう質問をする子だった。まぁ数学が好きっていうより、国語が嫌いだったから数学にのめり込んだ。数学は答えが間違ってれば解き方が間違ってるじゃん。国語は自分はこう考えてますって言ってるのに、先生に違うって言われる。でも何回考えても、これはこうしか思いませんっていう。まぁ先生にもよるけどね。やっぱどういう先生に教えられたかによると思う。
中学生の同級生が見る俺と、高校の同級生が見る俺は別人
高校入ったタイミングで性格、キャラは変わった。積極的にものを言うようにはなったんだけど、中学校はほんとに多分おとなしめで、決まったら「はい、従います」みたいな。もう何にも発言しなかったな。中学校の自分に満足しなかったっていうのがあって、もっと言いたいって思ってた。で、高校に入ったときに偶然クラスに中学校の同級生が1人しか居なかったのさ。そいつもおとなしいやつで、周りに俺の知ってるやつ、俺を否定するやつが誰もいないって思って、「あっ、なんかいいタイミングだな」っていう。チャンスって思ったんだけど、結局、生徒会長とかもちろんなったことないし、文化祭とかでもあれやろとかやったことない。だから、そういうムードに自分自身が慣れてなくて、思いっきり的外れのことを言って、高校に入るとすぐに変キャラになってた。多分同級生から見て、中学校の頃、俺がおとなしくしてたつもりでも多分変キャラには入ってたんだよ。だって中学校の頃から生徒会長とか学級委員長にはもうずっとにらまれてたから。そんなに発言してないのに、俺はにらまれてた。にらまれてるってことは自分で気づいてないだけで何かあったんだよ。なんか変なオーラがでてたんじゃないの。
とりあえずだまってっかなと思ったんだけど、高校に入った瞬間に、そのクラスに俺をいじめてくれる人がいなくなったから、はじけちゃったんだな。もちろん他の学校で、いじめ型の人が中学校頃の俺をみれば、黙ってろっていうタイプのやつはいろいろいたんだろうけど、その雰囲気を出さずにキャラ変してしまったから、そいつらにとっては俺は変なキャラの目立ちたがり屋のおバカなわけさ。中学校の同級生が見る俺と高校の同級生が見る俺は、ほぼ別人なわけさ。
同じ中学校のやつらとわりぃことやってた
友だちは少ないんじゃないかな。浅い付き合いの友だちは多かったけど、一緒に飲んで騒いでバカやってってなると同じ高校の中に2、3人じゃねぇかな。どっちかっていうと同じ中学校の別の高校に行ったのと、わりぃことやってたから。俺らの頃のわりぃことってぇのは、せいぜいタバコ吸ったり、酒飲んだり程度。友だちから「釣りしてるから出てこい」って電話あって釣りしに行ったら竿なくて、タバコがあった。で、いたずらに吸ってみて、その時むせてれば吸ってなかったんだろうけど、そのままむせなかった。そのときは空吹かしだったんだろうけどね。
特に頭がいいわけじゃなかった
俺だって偏差値55、6そこそこ。特に頭いいわけじゃない。高校の入試ん時、合格者225人中、170番くらいだったのよ。で、特進クラスっつうのがあって、それは高校入試のときに上位45人が入れられて、それ以外はバラバラ。入試では下から数えた方が早いから、俺はもちろん特進クラスじゃないわけよ。入学して、3日目だか4日目に全国模試みたいなのがあってね、そのときにぼーんと成績が跳ね上がっちゃって。県で11番だったかな。数学は県で2位だった。ただし、英語は下から数えた方が早い。大学入試は全部四択か五択で書くのね。そのときに高校の先生から言われたのは、「お前、頼むから考えずに全部3書いてこい」って言うくらい英語はひどかった。だからわかんないのは全部3書いてきた。で、大学から合格通知がきて、英語の先生に挨拶しに行って最初に言われたのは、「お前が受かるとは思わなかった」だった。
バイトのシフトはほとんど無遅刻無欠席
俺らの頃はとりあえず就職するか進学するか二者択一で選べばなんとかなる時代だった。18歳で大学行って山形大学工学部情報工学科の夜間部にいたのさ。アルバイトしながらずっと米沢市にいた。最初は中華料理屋で働いた。3年になって、卒研に入る準備で中華料理屋やめて、一応夜の方のバイトってことでボウリング場にアルバイトに行って、週末だけレストラン、ウエイターとして入った。バイトのシフトはほとんど無遅刻無欠席じゃねぇかな。
失敗も成功も糧になってると思うよ
生活は下宿で、食うには一切困ったことはなかった。けど保証人になって失敗したことはある。サラ金が世の中に出始まった頃なのさ。金利も高くて、同級生がパソコン買うっての保証人になったら、学生だから銀行が金貸してくれなくて、えれぇ金利が高くなったわけさ。で、友だちが払いきれなくて、ちょっと大変なことになった。失敗も成功も糧にはなってると思うよ。失敗して損したって思ってるよりは、失敗したことを経験に変えて、もう次の失敗は絶対繰り返さない。人にも繰り返させないと思ってる。
「単位くれないならやめます」って大学やめちゃったから、最終学歴は高卒
卒研は4年生っていうことなんだけど、4年生に入ってから3年生のときに二重聴講したのがばれて単位を剥奪された。今はできないんだけど、二重聴講ってのは2年のときに落とした水曜の3時間目の単位と3年の3時間目の単位の両方に履修届を出しといて、3年生のときの水曜の3時間目に2つの授業に出てたっていうことになってたってわけさ。それが4年生になってからバレた。だから4年生なってから3年生に取ったときの単位を全部剥奪されたわけさ。すでに4年生の前期に入っちゃってっから前期半年間の分、不正行為ありっていうことで、ここの単位の履修届出せないじゃん。5年生なってから2年のときの単位、6年目になってから3年のときの単位を取らないと卒業できない。
5年生になってから2年生の単位を取って、3年生のときに本来取らなきゃいけない先生のとこに、「すいませんでした」ってご挨拶に行ったら、もう2年経ってるのにも関わらず、「そんなふざけたやつは来なくて良い」って言われて、「じゃあ単位くれないならやめます」ってやめちゃった。だから、最終学歴は高卒です。結局その水曜の1単位を取るために留年してただけだから、ほぼ毎日暇なわけさ。米沢の工業団地の中にミクロンメタルって会社にアルバイトで入ってて、「大学やめたからそのまま就職させてください」って頼んだ。単位は取れなかったけど、経験が稼げただけでも、まぁいっかなって思うんよね。
トラブルも楽しみのうちだった
大学の頃、一番経験稼いだのは、東北地方サマーキャンプっていう実行委員やってたこと。東北6県、国立大学が6つあって、そこのネットワークから各県にある短大、看護学校、専門学校全部にキャンプが好きなの一本釣りで各大学から引っ張りあげてネットワークつくってキャンプやるぞっていう。俺らの先輩からずっとやってたんだけど、4泊5日でピークの時で3000人でやってた。俺らがやったときは1500人だったかな。もう続いてないみたいだけど、俺らがやったのが25、26、27回辺りまでで33、34回までは続いた。一番大変なのは場所取り。「大学生2000人集めるからキャンプ場を4泊5日貸して」って言ったって、どこの自治体が「うん」って言うの。6年かけて1周するから6年も前のことを知っている人は誰もいないから、おんなじとこで良いんだけど場所はできれば変えたいわけさ。ただ2000人入れるキャンプ場自体が東北管内にどれくらいあるかっていったら少ないわけよ。500人くらいまでだったら入れるキャンプ場いっぱいあるんだけど、2000人で貸し切れるところがなかなかないんだよね。
俺は中途半端に目立ってたから声をかけられた。好んで実行委員に入ったわけではない。言いだしっぺとか、トップとかは実はほとんどやったことがなくて、誰かがやろうとしてるのに声をかけられる。俺は結果的に毎回置かれる共通の場所があって、サッカーでいうとリベロ、きっちりお前はこれしてろっていう役割のところには置かれないのさ。実行委員長の脇にいて、とりあえず座っててって。次にどんなトラブルが起きるのか考えて、事前に何をしとけばそのトラブルが済むか考えててって。実行委員長より高いところにいて、ぜーんぶ見てて動きながら、ここ動き悪いなとかそういうのが見えるところにいた。その辺で、周りのことをよく見るってことを学んだんだと思う。トラブルは人が2、3000集まって起きないわけがない。それも楽しみのうちだった。
誰でもトラブルが起きるとこは感じるのさ。で、どうしてもトラブルが起きそうなところを見ると、目をそらす、耳を塞ぐ、背を向ける。そういうふうに育てられている人が実は多いと思う。誰でもどうやったらそれを早く完治して、早く対処して傷がちっちぇえうちになんとかするか。傷おっきくなってからじゃ大変だもん。でも今の親は、実際はみんなそれやってんだよ。自分の子どもには、そっち行ったら転ぶから行くな。実はその親は転んだ経験があるから言うんであって。でも悪いことにその子どもは、転んで痛いという経験をせずに育っちゃうから次の子どもを育てるときにどう育てたらいいわかんない。だんだんそういう世代が親になりだしてきてる。そういう時代が来ちゃったんだな。
27歳で地元に帰ってきて遊び回ってた
家業を継ごうと思ったのは、サラリーマンができなかったから。親が子どもの頃から自分で方針決めて、失敗しても自分のせい、成功した分は自分のものって生活してたのずっと見てた。やっぱ仕事ってのは利益出すってのと、品質を高くするってバランスでもってるって思うのね。自分がこうしたいって20代の平社員にはそんなこと決められねぇわけだ。だからそれにちょっと耐えられなくて、やっぱちっちゃくても社長だなって。でも27から30まではほとんど、ほんとに忙しい時しか家にいないで遊び回ってた。責任持って仕事するようになったの32、3くらいからかな。それまでは親父、お袋が元気だったから俺が仕事しなくてもなんとかなったてのが1つ。あとは青年団やったり、太鼓フェスティバルやったり、消防やったり。
火事場に行くと自分の背中を任せるわけさ
消防団に入ったのは帰ってきてからすぐ。試験とか何もないんだけど、一応米崎分団第1部に人を入れる際には、最低でも班長以上の全員の承諾が必要なわけよ。火事場っていうパニックになる所に行って、危険な道具を預けたり、下手すると自分の背中を任せるわけさ。その人に任すって、その人と一緒に火事場で行動できるかどうかを考えなきゃならないわけさ。「あいつと一緒に火事場に行きたくない」っていう人間を入れるわけにはいかないからね。消防団の活動はことがあった時ね、まず火事でしょ、それから水害、津波、あと行方不明者か。こういうときに出るんだけど、水防訓練とか、火災防御訓練とか、あとは津波訓練とか、行方不明以外はまず訓練がある。
「俺はこういう人間です」って雰囲気で出して、組みたいと思ってくれた人と組んでいきたい
手を抜くとか、できることをやらないっていうのは、絶対自分の持ってる雰囲気に出るって信じてるから。そういう人って会えばなんとなくわかる。一緒に仕事してみると、あぁやっぱりっていう経験がものすごく多くて。逆に考えれば自分が手を抜くことをしていれば、わかる人には絶対わかるんだと思うから、手も抜きたくない。で、言われたことをきちっとやってれば仕事が回る職場もあるわけだ。逆に余計なことをするなって言われる職場も当然ある。けど、そういう職場には俺は絶対向かないし、いられない。だったら「俺はこういうふうな人間です」っていうオーラを出すっていう行動をずっと心がけてる。自分が持ってる雰囲気を出せるだけ自分のオーラとして出しちゃって、気づく人には気づいてもらってその人に選択してもらいたい。
自分がなんとなく人を見れるようになってから、そういう考えになった。人を使うようになって、面接して、なんかこの人いいなとか、あの人ちょっとなとか思う。でも人もいないからとりあえず使ってみる。で、結局ダメだった。大概「この人はな」と思った人は、短期間でやめちゃうわけさ。「この人はいいな」と思った人は長持ちしてるし、それにやっぱり俺が気づくってことは、俺の雰囲気、オーラに気づく人は絶対世の中にいる。それに気づかない人は、俺をスルーしても構わない。「俺はこういう人間です」っていうのを言葉じゃなくて、雰囲気で出して。それで、俺と組みたいって言ってくれる人と組んでいきたいと思ってる。少なくともでかい会社の人事部のある程度の長ってつけられる人はそういう見抜く能力持ってると思うし。目とか立ち振る舞いとか見てれば大体見当つくもん。その辺はばかにできないと思う。
嫁さんとは会った日に結婚するって決めてた
嫁さんに出会ったのは帰ってきてから大分経ってからだから、34だな。結婚したのはその翌年の35歳。太鼓フェスティバルっていうのが陸前高田にずっとあって、平成元年から始まった太鼓のお祭りで、その実行委員をしばらくやってた。その仲間の家で飲みませんかって声かけられて行ったら、その声をかけてくれた女の人が「私いとこ連れてきたんです」っていうのが今の嫁さんなんよ。一緒に飲んだときに、あぁいいなと思って。突っ込んで嫁さんと話ししたことないけど多分会った日に両方決めてたと思う。お互いに良い歳だったしね。
結婚する前は週に10個くらいプログラム入ってた
一番上が長女で、立ち会い出産をして、生まれるところをビデオに撮ってある。子どもが産まれてから家に帰るようになった。もともとこの自治会長する前から消防団でしょ、漁業協同組合の研究部でしょ、あと青年団。青年団やめた後は、青年会議所にいたし、太鼓フェスティバルの実行委員も途中でやめたけど、そういうのもやってたし。結婚する前は週に10個くらいプログラム入ってたからね。
船の揺れが止まんなくて、でけぇ地震なんだなと思った
俺は意味を理解する前からじいさんに「地震が起こったら逃げろ」と言われてた。震災が起こったときは海の上で船走らせてた。海の上でも揺れを伝えるので船が変な揺れしておかしいなと思って、前進のレバーを止めるにした。それでも船の揺れが止まんなくて、おかしいなって思った。そしたらポケットで緊急地震速報が鳴った。あっ、でけぇ地震なんだなと思って周り見渡したら、山鳴りが聞こえて、あっちこっちで土砂崩れが起きてた。ほんでとりあえず土砂崩れの場所を暗記しようと思って、じーっと周りの山みて、土砂崩れの場所119番通報しようと思ったんだけど、いつまで経っても地震がおさまんなくて。じゃあ土砂崩れだけの騒ぎじゃねぇなと思って、俺1人じゃなかったし、従業員乗っけてたからすぐ戻るって決めて、5分かかんないで自分の港に戻った。で、1メートル、2メートルくらいの津波だったら船が流れないような繋ぎ方にして、自分は陸に上がった。従業員が防潮堤の辺りでうろうろしてたから、「直接家に向かわないで、1回山に上がって山道回って、家に帰るようにしてください」て解散かけた。自分は自宅戻って、誰かいるかなと思ったら、嫁さんと1歳の長男。どうして良いかわかんないからうろうろしてて、逃げろって言ったって余計なこと考えちゃうから、「小学校の長女を迎えて、おじさん家に行け」と目的与えた。「俺は保育園の次女を迎えて、おじさん家に行くから」って。それぞれ別々に行動して、責任を持っておじさん家に集合というふうに指示出して、動き出したな。両方とも無事に長女、次女連れて、おじさん家に戻って、みんなが集まった。
あるはずのない船が防潮提の上に見えた
その後、ちゃんと家の前の1人暮らしの人が避難したかどうか確認するってのが、消防団の中にあった。だけど自分が逃げる、家族を逃がすのが先になっちゃって、自分が確認しなきゃなんないその1人暮らしの人を確認せずに逃げちゃった。だから、やっちゃいけないんだけど、その1人暮らしの家確認するためにいったん下に降りた。確認終わって自分はもう1回自宅に上がって、2階の自分の部屋に行ったら、ちょうど窓が開いてて、そっからわずかな角度だけど、防潮堤が見えるのさ。その防潮堤の方に目を向けたら、あるはずのない船がね、防潮堤の上に見えたわけさ。海があって、防潮堤があって、我が家があるんだから、船が見えるはずがない。それがもう水面上がっちゃってて船が見えた。最初何だかわかんなくて、理解するのに数秒かかったんだけど、あぁダメなんだと思って。その辺にあったもんだけひっつかんですぐ飛び降りて、車に飛び乗った。
あまりにも理解を超える風景で、悲鳴も涙も何にもでない
防潮堤があって、何軒か家があって、我が家があるために家のそばにいた人は、まだ津波が超えて来ていることに全然気づかないわけさ。近所の人に「もう津波来るから逃げろ、逃げろ」って言ってた。まぁそん中にうちの親父もいたんだけど、俺に声かけられなかったら生きていられなかったかもしれないって。で、そのままもう1回おじさんのところに行って、何とかぎりぎりセーフと。追っかけるように、でかい声であちこちから「津波来たぁ、津波来たぁ」って聞こえてきて。どこにいても安心できないということで、高台のおじさん家の背後にある山の上に上がってみたら、山の向こうで津波がすごい勢いで駆け上がってるの見えた。あまりにも理解を超える風景で、悲鳴も涙も何にもでない。たまに来る余震、でかい地震に「うわぁ」って思うくらいで、地震の現実感はあるんだけど、津波は現実感がないわけさ。
生きてる人間をどうするかが、その場でできる唯一のことだった
もう訳わかんないし、どうしよって。みんなが集まってるところに集まって、情報待った方がいいってなって、すぐそばに中学校の体育館があったので、そこに行ったらみんなが集まってた。俺だけじゃなくて、みんなあまりにも規模がでか過ぎてパニックになってないんだよね。ほんで俺らはおじさん家に避難。まぁ避難と言えば、避難。消防団として一度集まるようにはなってたから、消防団として筋が通っていない勝手な行動とったわけさ。だから俺がいないという話になってて。俺が流されたんじゃないかっていう扱いになってんだよ。俺が家族と一緒に中学校の方に行ったら、部長がちょっと泣きながら「はぁ良かった」って来てくれて、ちょっと抱き合っちゃった。もう中学校のすぐ下に津波がきてるの見えてるし、でもどうしようもないんだよな。生きてる人間をどうするかが、その場でできる唯一のことだった。
一晩目は津波のゴゴゴゴって流れる音がしてた
中学校も学校やってたんで、生徒が全員親が迎えに来てない状況だったの。だから職員も残ってたし、生徒も何人かいた。それで学校の先生がいろいろ手配してくれて、そのうち水止まるだろうから、水出るうちに水確保しようって。で、水道栓開けても出なくて、消火栓開けたら出たの。消火栓で、中学校にあるバケツから鍋から水をかき集めた。あとは近所に声かけて米を譲ってもらって、米炊くのも中学生と動ける消防団とか若い世代集めて、近くの林の木切ったり、折ったりして集めて、それで火を起こした。でも電気釜もないし鍋も少ししかない。あんとき、体育館に300人以上いたから、とりあえずできた分から、ちっちゃいもんに渡すようにして、おにぎり食わした。でもすぐ「腹減った腹減った」って子どもたちが騒いじゃったんだけど。情けなかったな。保育園児がまず理解できないじゃん。「お父さん寒いよぉ。お腹すいたよぉ。お家帰ろうよぉ」って言って。だってねぇ保育園児相手にお家流されたんだよって言ったってさ。いずれ理解できるかもしんないけど、今起こったばっかりのところで、「家帰ったってもうないんだよ」って理解できたらできたで大変なことだし、ぎゅーっと抱っこして「ごめんね。そのうち帰ろうね」って言うことしかできなかった。で、近所から借りてきた毛布を何人かで、おしくらまんじゅう状態で外側だけくるんで、それでまぁ一晩目をなんとかそれでやり過ごしたかな。その間にも、夜中に何回かでかくて長い地震があって、みんなして体育館飛び出してた。すでにまだまだ何回も、そのおっきい津波がいったりきたりしてるから、ゴゴゴゴゴって流れる音がしてんだよね。流れる音に、さらにでかい揺れがくっから、また津波がプラスアルファできたら大変なことになるっていうんで、中学校からもまた抜け出して、中学校のそばにあった高台にみんなで上がる。でも暗くて、津波がどれくらい引いてるか、どれくらい流れてるかもわかんない。一晩目はそういう夜でした。
2日目くらいまでは、消防団は何もできなかった
体育館も壁が高いところで、ひびが入ってる。全体で歪みが入ってる。校舎にもあちこちひびが入ってる。天井や壁がいつ崩れるかわからない建物に人を置いとくわけにいかない。なんとか次の場所を探してくださいっていうのが中学校校長の判断で。で、あちこち探したら、米崎小学校の体育館が空いてて、ここは避難所指定にもなってなかったし、中学校の体育館にあった絨毯、畳、マットとか全部運んだ。いくら消防団といえども大津波警報が出てる状態で捜索に出ることはできなかったわけさ。2日目くらいまでは、消防団は何もできなかった。だから消防団も避難所生活。消防団の部長もそうだし、俺もそうだし、家族いる人は避難所にいた。親は別の避難所にいても、嫁さん、子どもがいないやつは消防屯所に寝泊まりしてたし、いつどんな招集かかるかわかんないから、その間は雑魚寝状態だった。で、部長がこっからはここに寝ることっていうだいたいのシステムつくった。
避難所を運営するきっかけは、部長やみんなが背中を押してくれたこと
俺が避難所で運営するにあたってやっぱりきっかけっていうのがあって、一番最初に「お前やれ」って言ったのは消防団の部長で、俺が副部長。部長とは付き合いがめちゃ長いわけさ。平成4年にUターンしてきて、そん時からずっと一緒だから、危険なところにも何度も行ってる。先輩だけど、喧嘩したこともあるし。でも知らない人に神輿の上にのっけられて、この人ちゃんと神輿担いでくれんのかなっていう状態じゃこっちも踏ん張りきかないけど、部長は違う。それに「お前がやれ」って背中押してくれた人が何人かいるわけさ。もともと黙っていられるタチじゃないし、何かあればこうした方がいいんじゃないのって言っちゃう。よく売り言葉に買い言葉で「いやあんたの言ったこと違うんじゃないの」、「じゃあお前やれよ」っていうのが大嫌いで、「じゃあやるよ」っていう気質が根本にあった。ただ、避難所の中に入った段階で俺より性格も能力も経験も上の人が何人もいた。何か嫌らしい言い方なんだけど、違うと思ってもこの人が言ったのはとりあえず従うっていう人がいるわけさ。この人に従ってれば、俺がこの辺を目標に行きたいって言ったときに、この人だったらぜっていこれよりさらに上にたどり着ける、みんなを引っ張ってける人がいる。それを今までの中で経験してて、俺が右の方に行きたくても、他の人が左の方に道を導いた。でも行きつく先は実は俺と一緒だよっていう人が何人かいた。その人が俺と違う方向を行ったら、とりあえず黙って従う。そういう人が何人かいたんだけど、その何人かがやはりやらなければいけないことがあると。消防で捜索に行くとか、家族が見つけられないから、俺は悪いけど家族を探すことを優先するって言う人がいた。その人らが偶然が重なって全員「一男に任せてく」って言ってくれたのが、まず今回のきっかけとしては大きい。
結果に満足できる人にお前がやれって言われたから、自信を持って避難所の運営を進められた
俺と目指す方向が違うけども結果に満足できる人にお前がやれって言われたから、ふんばるって以上に自信を持って進められたし。その人らだって多分過去の俺を見て、100点じゃなくても70点から80点くらいの結果出すだろうと踏んでくれたんだろうと思う。それで何かトラブルがあれば手貸すだろうし。でも「俺は常時いることはできないから、一男に任せる」って言ってくれた人が何人かいる。で、避難所をとりあえずまとめるようになった。でもやんなきゃなんないっていう気持ちだった。最初は義務感かな。不思議と「誰かやって」っていう気持ちにはなんなかった。だから消防団じゃなかったら、体育館の運営もやってないし、そっから波及した仮設住宅の自治会長もおそらくやっていないと思う。
寝るスペースと食い物の確保を一番最初にやった
体育館に行って一番最初にやったのは、寝るスペースを確保する。それと食い物を確保する。みんなに呼び掛けて、「この近所で被災していない親戚回って自分たちの分だけじゃない、みんなの分の米とか野菜とか譲れる分だけ譲ってもらってきて」って。あと何人かには「どっかで水確保できないか見てきて」って、まず水と米だったな。結構どの家でも米は持ってて、小学校に来た初日だけで2、300キロ持ってたな。どこの家でもモミか玄米で保管してあるから、食うばっかりに米が搗いてある家はそんなにないから電気がないのは困ったな。それでもみんな10キロ単位では持ってるから、それを寄せ集めて何日か持つなっていうくらいに初日のうちでなってた。腹を満たすだけだったらなんとかなると。ただどうやって、人数分炊いて、人数分用意するか。でも、しょっぱなから炊飯器で炊いて、9割は譲り合ってくれたな。まずは子どもから先に配っからって、次に年寄りに配っからって言うのに文句言う人はいなかった。面倒くさいって言う人はいたけどな。「他の方が待遇良いから行く」って。どうぞ行ってください、何にもしねぇくせに、他の避難所行ってご飯もらって、また戻ってきてこっちの避難所きてご飯もらってっていう人もいたけど。小学校に移って3日目くらいには、もういろんなものが届きだしたよ。
腹が減ってるとイライラして、ぶつかんなくて良いところで、ぶつかる
最初は小学校の調理場を借りようと思ったんだけど、ガス配管が建物の中に通ってるから、どこで割れてるかわかんないわけよ。ガス警報器が電気がなくて作動しないからガス漏れ起こしてるかもしれないし。それに気づかないでいると大変なことになるし、小学校の調理場は恐いのよ。小学校の調理室自体は何100人分の道具は揃ってるんだけど、何100人分を常に作るわけじゃないからガスボンベも少なくて、正直使いもんになんなかった。で、保育園がすぐそこにあって、保育園の施設が100人分自炊できる設備整えてるからそこを借りた。ガスがなくてもプロパンガス使えるから、煮炊きした。実は保育園の方は建物が古くて、安全設備が正直古いのよ。最新のやつって電気がないと安全装置が働いてガスが通んないようになってる。古いやつだとそれはないし、配管自体も全部むき出しだし、一番柔らかいところは鉄管じゃなくてホースだし。だから保育園のやつの方がむしろ安心して使えた。結構早い段階から温かいもの食ってたな。とにかく腹にものが入ってればイライラしない。腹が減ってるとイライラしてぶつかんなくて良いところで、ぶつかる。だからおばちゃんたちには、すごい頑張ってもらった。
2カ月経ってもどうなるかわからないから、食い物は貯めなきゃなんなかった
一番困ったのは食い物のバランスだな。保存し過ぎて賞味期限が切れたり、カビ生えちゃうっていうのももったいないし。でも賞味期限重視でいくと、食い物が連続したり、偏ったりするし、飽きちゃう。まぁ、あの段階で食い物に飽きたっていう贅沢を言えるのは、多分市内でも想像できないんじゃないかなと思うけど。見たこともないもないくらい、賞味期限明日までっていうパンは結構きた。栄養のバランスとか食い飽きの都合で、ちゃんと2日、3日先までの大体のローテーションつくって調理班はやってるから、そこに1つボンッと明日までのとか今日中にっていうのがくるとプログラムが狂う。正直今思えば食っちゃえば良かったんだけど、この物資がいつまでもくるとは限らない。特に最初の10日間なんか、全部個人が運んできてくれたもので、公的支援物資なんか1つもきてないんだから。1カ月も、2カ月も、食い物がくるとは限らない。でも、うちらは1カ月、2カ月経ってもどうなるかわからない。だったら貯めれるだけ食い物は貯めなきゃなんなかった。
役員を決めることで、避難所の運営はうまくいった
自衛隊とか行政からの支援がくるのに1日か2日かもしかすると3日はかかるかもしれないから、それまでは地域のコミュニティーで、なんとか食いつないで生きてもらわなきゃいけない。その2日間か3日間だけの態勢作りを災害を想定して、各地域でシステム作る練習しててくださいっていう自主防災システムっていうのが、一応紙の上だけどあるのよ。部落会の役員っていうのが、十何人いるんだけど、その人はもう会長が統括、副会長が情報班、女性組は衛生班、青年部の方は資材班っていうふうにある程度の自動割り付けがあったんだ。だからそれを何回かやってるから、どういう部署とどういう部署があればなんかとなるってのが、なんとなく頭にイメージあって、その役割分担を、現場にいる人間で割りつければなんとかなると思った。で、適当な人間その辺に引っ張ってきて、ほいって役割をおっつければなんとかなるってそうでもない。やっぱり向き不向きっていうのがあるし。でもやっぱ3日間見てると、米炊く、もらってきた野菜を調理する、何か必要なものができたときになんとかするっていう話になったときに、率先して動いて何か手伝うっていうのが何人か出てくるわけさ。その率先して動いてくれた人をじーっと受付のとこから見てて、この人だったらうまくみんなをまとめられる、先にたって動いてくれるっていう人を目星つけといて、「お願いありますからちょっと来てください」っていう。小学校に移ってから3日目、4日目の夜かな。相談会をやって役員を決めて動きだした。結構うまくいったとは思う。
避難所の周りは結構物騒だった
俺らも睡眠時間はとってたけど、寝ようと思っても寝れなかったっていうのもあるし、結構物騒だった。小学校の体育館にくれば、いろんなものがあると思うから、盗まれたものもあるし。一番恐かったのは車のガソリンが抜かれるっていうの。ブルドーザーから軽油が全部抜かれた。瓦礫ん中にドラム缶が流れついてるの見つけて、発電機に使うからっつって、無理やり積んで持ってきたわけさ。それで発電機やポリタンクにも入れて使っててドラム缶に3分の1くらい残ってたのを玄間前に置いといたら気がついたら中身が空だった。ガソリンが抜かれるのも困るんだけど、ガソリン抜くために電灯がない状態で盗みにくるから、ライターとかで火つけられるのが怖くて。大体23時から24時くらいと25時くらいに体育館の周りの駐車場の周りを毎晩時間ずらして警備に行ってた。で、俺が起きたタイミングでぐるっと回るっていう。被災して、津波の一番端っこに来た車からガソリン抜かれたとか、結構ガソリン泥棒は出たな。
部長のアイディアで子ども部屋をつくった
5日目には子ども部屋つくった。うちもそうだったけど、やっぱ最初はちっちゃい子は夜8時間むったり寝てくれないし、夜泣く。ちっちゃければちっちゃい子ほどそう。そうすっと子どもと一緒の生活に慣れていない家庭ってのもあるし。そういう人ら見てると、子ども持ってるお母さんが大変だし、ストレスになっちゃうの。これは俺じゃなくて、部長がアイデア出したんだけど、子どものいる家族だけを集めた部屋を1つ学校から借りて、ちっちゃい子がいる家族はそちらで暮らしてくださいと。ちっちゃい子いる家庭だと、隣の家庭のちっちゃい子が泣いても、慣れてるからそんなに気にならないわけさ。お互いに面倒見あうし。体育館は体育館で夜泣きする子どもがいなくなったから、気も楽になるし、お母さん同士は仲良くなるしっていう。
何かをやってないと俺が壊れそうだった
ピークのときは避難所に300人いて、通常300人集めただけでトラブル起こんのに、24時間一緒に暮らしててトラブルが起きないはずがないんだよ。でも想像してた数の10分の1しかトラブルは起きなかった。今思い返してもすごく不思議。確かにいろんな手立ては講じたけど、ありえない状況にみんな追い込まれてるんだから、手立てを講じたからって防げるトラブルばっかりじゃないんだ。ストレスなんかものすごいもんだったし。限界の状態は、最初の3日で通り越してた。明日自分がどうなるかわかんない。もとの生活にはぜってい戻れない。いつまで避難所にいなきゃいけないのかもわかんない。食い物はなんとかなったけど、この環境に10日もいたらみんな病気になるっていう不安はものすごくあった。なんせ小学校の体育館の避難所の中に小学校の運動用のマットとか中学校の運動用のマットとか下に敷いて、寝るスペースつくって、数少ない毛布をみんなでかぶりあって寝てて、めっちゃ寒かったし。ストーブだって体育館の中、全然効かないからね。夜中に何回も寒くて目が覚めたもんな。よく病気になんなかったと思うよ、みんな。凍死が出てもおかしくない状態だった。でも避難所に一緒にいた先輩に、「よくやってくれた」って言われてんだけど、何かをやってないと俺が壊れそうだった。空いた時間の方がしんどい。自分が亡くしたもの、これからやんなきゃなんないこと、いなくなった友だち、知り合いのことを考えちゃう。夜中に友だちを探しに行こうかなとか。親戚が土地持ってるから、お願いしてあそこに家建てようかなって。今ちょっと行ってみようかなって。今考えてもしょうがないことを考えちゃうんだよね。まぁ、やっつけてるのが精一杯で、頑張ってるってのとは多分違う。正直望んだことだけじゃなくて、望んでないことも来るもん。家族の存在がでかいよ。同じ能力持ってたとして、1人暮らしで誰も面倒見なくて良いって思ったら、こんなに前には出てない。何も起きなくっても自分は全然困んないもん。多分、1人だったら何もやってないかな。でもじれったくなって前に出ちゃうかな。それはなってみないとわかんないけど。
定期的にでけぇ声張り上げて釘刺してたから、みんな協力的だった
物資はずっと来てた。途中から公的支援物資と個人支援物資の両方がくるようになって、どんどん物の供給が安定するようになった。ちゃんと数が揃ったらみんなに渡せる分が揃ったら渡すし、今必要なものがあったらちゃんと渡すから、ちゃんと見えるように並べて取らせない。俺らも取らない。だからこそ喧嘩にもなんなかった。でも定期的にでけぇ声張り上げて、釘刺してたから、みんな協力的っちゃ協力的だった。
俺らは「忘れ去られることが一番恐い」って言ったけど、メディアはどこも取り上げなかった
だんだんと有名になればなるほど、余計なものもくるから、お陰さまで総理大臣きたり、警察庁長官きたり。3カ月くらいくるメディア、新聞、雑誌、テレビ、ラジオは、「今どういう状況ですか」って言って入ってくるのよ。でも総理大臣が入ってくるときは、くっついてくるのが違うんだよ。欲しいコメントがあって来てんのさ。「総理大臣今頃来てどう思いますか、遅いと思いませんか」って。「今頃来て遅い」そう言わせたいのよ。それで「今頃来て遅い」みたいなコメントを言ってましたみたいなことを書かれた。俺言ってないし。俺ぜってぃ言ってないもん。全部のメディアに言ったもん、「阪神淡路大震災のとき、あんたら何してた。2カ月で報道を全部打ち切ってんぞ」って。「うちらは2カ月経ったって、おそらくこの状況と対して変わんないんだぞ」って。「報道をきちんと続けてくれるんであれば、コメントする気になるけど、総理大臣が来て、こうやって報道陣が来てくれて、現状こうですって言えるのは非常にありがたいことだ」って言ったんだけどどこもそれをメディアは取りあげない。俺らは「忘れ去られることが一番恐い」って言ったんだけど、どこも取り上げなかった。
「葬儀する」って聞く時って悔しいっていうか、残念っていうか、あんな虚しい気持ちはない
数え切れないくらい得たものはほんとにある。収入だけじゃなくて、経験もそうだし、子どものときの思い出もそうだし。でもぜっていかけがえのない友だちがいなくなったってのは、もう何も変えられない。まぁ家族が一番そうなんだろうけど、遺体があがらないってのがものすごいきついことで、心のどこかでどっかで生きてんじゃないかって、区切りつかないんだよね。実際問題、「家族大丈夫?」って聞けるかって言うと聞けないのさ誰にも。自分から言う人もいるし、聞きづてに「あそこのうちは息子が亡くなった」とか、「父さんが亡くなった」とか。親戚はいろんな都合もあって葬儀しなきゃなんない。けど友だちが亡くなったってのは、なかなか誰も連絡くれないんだよな。連絡がくるとすれば「あいつ来週葬儀するんだって」とか「あいつの遺体が見つかったんだってさ」っていう半分噂状態でしか聞こえてこない。本来であれば、お通夜の案内とか葬儀の案内が来てしかるべき付き合いしてた人が、知らない間に葬儀済ましてたとか。震災直後なんか葬儀の案内もらったって、とても対応なんかできないし、家族だってそんな余裕ないし。実際、俺の知り合いが何人亡くなったか、自分でも未だに確定出せてない。
今、1年半経ってさえ、「えっあの人津波で亡くなってたんだよ」とか、「津波で行方不明のままだよ」とか未だに聞かされる。同級生とかだと同級会である程度対応しようと思うから誰と誰が亡くなったっていう連絡がくるけど、元青年団同士とか、飲み屋で知り合った友だちとか、保育園のPTA会の役員同士とか今、つながりのない人っていうのはその連絡すら来ない。ましてや、その人の家族が亡くなってるなんかどうやっても聞きようなんかない。友だちが3月11日に行方不明になったって半年経ってから聞いて、それから1年経って家族が諦めて葬儀するっていうのを聞く時って悔しいっていうか、残念っていうか。あんな虚しい気持ちはない。
どうやっても納得なんかぜっていできない、理解なんか余計できない
もちろん俺も遺体もあがってないのに、認めたくないけど、それ以上に家族って認めたくないはずなんだよね。でも遺体、髪の毛1本もあがってないのにどっかで区切りをつけなきゃいけない。もう1年だから葬儀するとか、そういう決断って、俺が家族の誰か1人亡くなったとしたら、多分一生決断できないと思う。子どもの誰か1人いなくなって、遺体もあがってなかったらぜってい葬儀なんかやんない。認めたくない、認めない。そういう人っていっぱいいると思うんだ。法律上とか、親族への区切りってことで諦めて葬儀をやったかもしんない。見つかってないのに、子どもの葬式なんか、ぜってい親は認められないんだ。そういうのが、何10件、何100件ってあるんだから。
はっきりしない人の生死って、これほどきついものない。それも普通の行方不明じゃないから3日経っても見つからないっていう段階で99%もう無理なんだろうけど、99.99%無理って言われても、認められないんだよね。ましてや、俺の2個下の飲み友だちで消防団で一緒だったやつが、隣町で仕事してて被災して結局出てこない。見つかってもいない。でもまさかあいつがっていう。しっかりしてるやつだし、消防にもいて津波の怖さ知ってるやつだし。何人かいるんだよな。ぜっていこの人は、確実に逃げる手立てを講じるはずだっていうのに、いない、見つかんないっていう人。ドラマじゃねぇけど、どっかで記憶喪失なって生きてんじゃねぇかっていう。そんなドラマみたいな話があるはずじゃないんだけど。どうやっても納得なんかぜっていできない。理解なんか余計できない。
避難所を運営するとき死んだ人から力をもらった
高田だけで2000人くらい流されてるのが事実だし。毎日のように避難所に新聞が届いて、知ってる人の名前が死亡欄に挙がってた。けど、新聞に名前載ったからって信じることなんかできないよ。あの新聞に載った人が死んでたっていうのをどれくらい理解してるかって言ったら、疑問だらけで、理解できてないんだと思う。戸籍上削除されただけで、毎日会ってる人間だったら今日会わないとおかしいなって思うんだけど、仕事でもない限り、親戚でもない限り、必ず会わなきゃなんないもんでもないし。月にいっぺんも会わない人もいるんだし。でも大事な人。その人が新聞で、はい死んでますって載ったからって納得なんかできないんだよ。頭ん中の死亡者のリストになんか入れれないし。数字上では陸前高田は1800人くらい死んでますって言ってるけど、俺ん中では多分100人か200人くらいしか死んでないって納得させようとしている。むしろ震災後に震災とは別の件で亡くなった知り合いの方が葬式とか行ってるし、親族にも挨拶してるし、はっきりと死んだって理解できる。年に1回か2回しか会わなくても、ほんとに大事なときに連絡とか取り合う人ってのは消せないんだよね。アドレス帳にも何人も残ってる。
でもね、その現実を突きつけられる時ってたまーにあるのさ。その人がいるべき場所に俺が行かなきゃなんない時。消防の会議とか青年会議所のOB会とか。いろんなとこでいるべきとこに、必要な人がいない、頼りたい人がいない。風邪引いて休んでるかもしんないんだけど、「死んだ」「行方不明だ」って返事されるのが恐くて、「あの人どうしたの」って聞けないんだよ。でも避難所運営する時って、むしろそういう人らが力になった。「あいつだったらこんな時どうするかな」「あの人だったらこんな時どう言うのかな」って。
自分の能力の限界をはるかに超えたところで運営したと自分でも思う。正直、体育館の運営はうまくいったと思う。運も良かったと思う。でも震災前の俺にそんな能力があったかって言われると絶対ない。そんなに決断力なんか持ってない。目指すものがあるとすれば、環境が変わってしまった。自分の子どもが落ち着いていられる場所を作りたかった。落ち着いてる環境をつくりたかったっていう目標があるんだけど。やりたいっていうのとできるっていうのはまた別だから。死んだ人からかなり力をもらった。そんだけは確か。
俺の教育が甘かったってすごい責任感じた
地震津波の知識が叩き込まれてるあいつが、亡くなるはずが絶対にないって思ってんのに、いつまで経ってもいない。それがすごく残念だっていうより、俺の教育が甘かったってすごい責任感じて。教えきれなかったという思いが。必要だと思った倍逃げろとか、人より早く逃げろとか、消防団だからって、全員を背中に背負って逃げるっていう必要はどこにもないんだ。消防団っていうのはプロではない、ボランティアだから、自分の命をかけて人の命を助ける必要はないので「逃げろ」と言って声をかければ、消防団としての責任は果たしてるってことになる。
消防団の活動のメインは火事場なので、消防団に入った時先輩から必ず言われるのは、「火を見たらみんなパニックになる。家が丸ごと燃えてんの見たら全員浮足立つ。でも人を助けようと思う。火を出したやつが悪いと思え。その言葉を一番最初に自分の身体の中で理解してから動かないと、ぜってぃ後悔する。自分がケガをするか、人にケガをさせるか。だから火を見たら火を出したやつが悪い。頭の中で繰り返しながら動け」っていうふうに叩き込まれた。俺は叩き込まれてきたし、後輩にもそれを伝えてきた。地震があったらこう思え、津波警報が出たらこう思え。3メートルの津波って言われたら波ってぶつかり合うものだから、場所によっては6メートルになるかもしれないし。それを覚悟の上で、どこで自分が6メートルの波を受けてもいいように活動しろと言われてきた。それを言ってたつもりなんだけど、それを言葉じゃなくて実感として伝えられたのかっていう、すごく後悔が…。
奇跡に出会えると、何かあがってこないと認められない
今年の3月まで家族も認めない。3月17日の1週間経ったところで葬儀をして俺も区切りをつけたんですけど、やっぱり髪の毛の1本も未だに見つかってない。実感なんかどこにもないんですよね。だから認められないし。何千人に1人の確率なんですけど、奇跡が起きてるんですよ。もう自宅から流されてるのを見られてるのに、実は山に打ち上げられて助かったとか。
消防団で一緒に活動しているやつの奥さんが、となりの気仙沼に仕事に行ってて被災して、どう見ても仕事場は完全に津波が入ってる。被災から1週間近く経っても奥さんが帰ってこない。生存の連絡っつうのは行政無線で何とかなるのに、それすら連絡がない。ここで大津波警報が解除される3日間耐えて、4日目から1週間目までは生存者捜索に一緒に活動しに行った。で、1週間経ったときに「すいません、ちょっと捜索休ませてください。うちの家内から連絡がないんで探しに行ってきます」って気仙沼へ行ったら、気仙沼では大きな火事があって。その火事があったところの隣のビルの屋上に避難してて、全身やけどで病院に運ばれて、連絡が取れなかったんです。生きてたんですよ。もう俺らにとっても奇跡だし。そんときは全員で、メンバー全員でほんとに泣いた。そういう経験もしましたし。そういうほんとに何百人、何千人の奇跡に出会えると、どうしても遺体があがってこないと認められないんですよね。もしかしたらって心に。何も出てきてないので、心に残るんですよ。
この震災のために俺は経験を積んできたのかなって思ってる
一段落してから思ったのは、大学の頃に千何百人集めたキャンプやったり、その後にもこっち戻ってきて、青年団入ったり青年会議所入ったり、太鼓フェスティバルの実行委員会やったり、そんときの経験は全部活かされてる。逆に考えると、この震災のために俺は経験を積んできたのかなってすら思った時があったし、今でも思ってる。イベントやるってことは、トラブルの経験を重ねるってことだから、その経験があると、うまくいった経験より失敗した後、なんとかする経験の方が何十倍役に立つのさ。予定通りに行くんだったら、そんなに楽なことはないし。どんな完璧な予定立てたって、ぜってぇどこかでトラブルが起きる。トラブルが起きたときに俺はどうするか、どう考えたか、誰にどうしてもらったか、それを思い出しただけで、まず体育館の避難所でトラブルの起きそうな気配が出ただけですぐに動き出してた。誰かに、こういう状況になるかもしんないからなんとかしてとか。自分で動いて、そのトラブルの種がちっちゃいうちに消して歩くか。
人の自由を奪う代わりに、自分も得するようなことは絶対にしないって決めてた
一番恐かったトラブルは、各個人が勝手に自分の利益になることをやり始めること。そうするとそれに右倣えする人が出てくる。そうすると収拾がつかなくなるから、各個人が動きだす前に「これはするな」「これは許さん」って、毎晩怒鳴って、釘を刺してた。怒鳴られている方がなんで怒鳴られているのか、わかっていなかったっていう。おばちゃんたちに「なんでこんなに怒られなかったらわかんないのか」って言われたことがある。8割方の人は俺が怒鳴ってる対象ではないんだよ。アクションを起こしそうな人だけつまみだして、怒れば済むかっていうとそうでもないからね。その人がやらなかったら別の人が絶対同じことをやりだす。それを1個1個つまんで対処してたんじゃ俺は身がもたないし、漏れが発生する。だから何かこういう事態が起きそうになったときは、全員の前で全員に「これするな」って言う。そうすることによってみんなの身動き封じてたのかな。そんな気がする。人の自由を奪う代わりに、自分も得するようなことは絶対にしないって決めてたし、役員にもそうしてくださいって言ってた。「役員特権ってのはありません、その代わり自分の家族が安心してここに居られる状況をみんなでつくってください」っていう話をしてた。
例えば、充電器は電気通るまで全部出せって。発電機持ってきて、夜だけライトがつけられる状況にしたら、「充電器あるんで携帯充電なくなったから充電させてください」っていう人が1人来たのよ。いつ電話がくるかわかんない。だったら充電しといた方がいいのは確かだし、言ってることは理解できると。そん時、俺が「終わったら俺にも貸して」って言おうとしたのさ。そこで何かおかしいと。その段階で俺が得しちゃだめだよなって。この人が充電器持ってるのわかったら、みんな貸してって言いたくなるよねって。ただぜってぃ人の強弱が発生する。でもそれはもう不公平の始まりだなと。
あぁいう状況だとお金持ちも貧乏人もあっちゃいけないんだ。優先順位もあっちゃいけない。優先順位があるとすれば弱い人、子どもとか老人、病気な人が優先であって、役員とか口の上手な人が得してたら、ぜってぃこんなとこは崩壊する。今必要なものを持っている人が強い立場になったら今の運営は崩壊するって頭の中でシミュレーションして「こっちで管理して、あなたのもちゃんと充電するからって充電器預けて」って。で、1人とは限んねぇなって思って、その日のうちに「いつ電波届くかわかりません。携帯みなさんの分、充電したいと思いますので」って言って、先に充電器を全部出してもらって、消防団のを優先する。それから順番にあいたところからみなさんのを充電していくからって運営してた。
仮設住宅当選の連絡が来たときは複雑だったな
仮設の建設が始まったのが、4月の頭。4月17、18日あたりから当選の連絡が携帯に入るようになった。俺に当選の連絡がきたのが4月24日だったかな。16日くらいから当選者がぽつぽつ出始めて「うち当選した」とか「みんなに言いづらいんだけど当選した」っていう。俺は「米崎町内」って書いたけど、最後まで連絡来なかった。米崎町では落ちたんだなって思ってたけど、誰かキャンセルがあったんじゃないのかな。希望通りの仮設に入れた。体育館の避難所で、だいたい数が出揃って当選者の連絡が、全然なくなって、3日くらい経ってからうちに連絡が来て。でも連絡が来たときは複雑だったな。家族のことを考えれば早く仮設住宅に入りたかった。でもこの体育館の避難所ほっぽり出して俺行っていいのかなっていう。結構しばらく通いで体育館に来てたな。5月3日には鍵もらったんだけど、家電が入ってなくて結局移れなくて、5月10日あたりにみんな移ったのかな。
子どもが遊べる特別な集会所
小学校のグランドに仮設住宅が入ることになったんですけど、集会所がない。で、グランドに建てた仮設住宅に屁理屈がついて、「目の前に学校っていう立派な施設があるから、学校から1部屋借りろ」と言われてるんですけどって学校長に言ったんですけど、どこの地区も一緒で、中学校か小学校かどっちか必ず津波で校舎をやられてるんです。てことは、中学校に小学校が間借りしてるか、小学校が中学校に間借りしてる状態なんです。だからとてもじゃないけど部屋がない。ましてやこっちが会議しようとすれば、やっぱりスタートが19時、終了が21時。学校っていう建物の特性上、1箇所の鍵を開けると全ての部屋に入れる。それはだめだと。グランドの1角を借りて建てようと思ったんですけど、仮設で狭くしちまったグラウンドをこれ以上狭くしたくないしっていう。そこで、体育館の避難所で出会ったいくつかの団体に、そういうわけで建物がほしいと話ぶん投げたら、セーブ・ザ・チルドレンが受けてくれた。セーブ・ザ・チルドレンとしては、子どもを常に入れる状況を作りたいっていうことで、おもちゃとか、絵本とか、テーブルとかが常設してあるのをイメージしてる。セーブ・ザ・チルドレンが子どもたちのことを言うんだったら、「雨が降っても子どもたちが遊べる場所を提供して」って言ったら建ったんです。
こんなにも物がある集会所、思いっきり特別
こんなにも物がある集会所、もう思いっきり特別です。だから集会所は完璧に近所から独立した建物なんだけど恐い。ちょっとグルっと見渡せば金になりそうな物はあるんで、パソコンとか。それを狙った泥棒ってのも常に心配はしてるんです。まぁ簡単に入ろうと思えば入れるし、なんかありそうな感じしますもんね。集会所って言ったら支援物資がとか何かいろいろね。だからわざと俺の車とか置いて可能な限り人いるんだよっていう雰囲気を出してる。
若いときの苦労は買ってでもしろ
ずーっと抱えてた座右の銘っていうか、格言というのがあって。今の世代に言うとすごく年老り臭く聞こえっけど、ずっと抱えてたのは、「若いときの苦労は買ってでもしろ」っていうのがある。苦労する、面倒くさいことから逃げないようにはしたいとは思ってた。自分で乗り越えた面倒くささ、大変さっていうのは、次同じものがきたときに前回よりは、ぜってぃ簡単に乗り越えられるようになる。それが2回、3回乗り越えさえすれば、他の人が「うわっ、これやだな」って思うようなことが、割と簡単に自分の頭の中で、答えが出せて、すぐにできるようになるかなぁと。だから、面倒くさいこと、嫌なことっつうのは、できれば飛び込んでやりたいと思ってきた。人と人とのいざこざっつうのは、正直解き方がわかんないし、そういう分野は俺が苦手にしてるけど、面倒くさくてもやり続けてれば解けるもの、答えが見つかるもの、解決してしまうものってあるじゃん。そういうのは積極的にやろうかなとずっと思ってた。多分中学校の頃からかな。高校の頃はすでに確実に思ってた。
なんか面倒くさいこと、嫌なことっつうのは、自分が率先してやった方が、そのときは周りの人がラッキーと思うかもしんないけど、結果的には自分の経験になって、いずれなにかあった時、自分はそれを解決するノウハウっていうか、技術っていうか、それは自分のものにできるなっていう。その言葉を意識してるからかもしれないけど、人生の途中途中でそれを実践してきたんだなと思える人には何人か会ってる。
一生自分は未熟で、本気で思い続けないとたどり着けない世界
俺が身近な中で理想としてる人ってのは、藤田東一さん。ここの地元の人で、今は引退したんだけど、米崎町コミュニティセンターの元事務局長やってた人。大工さんで、途中で病気になって、ちょっと身体が不自由になっちゃったんだけど、実は国宝の日本刀も研ぐ免許を持ってる研ぎ師で、今でもきちっと研ぐことを続けている人。そういう人って、仕事に途中で満足したり、満足したものを作っちゃったと思ったら多分そこまでの技術ってその人には身に付かないんだろうな。一生自分は未熟なんだって思える、本気で思い続けるくらいじゃないとその世界にたどり着けないんだろうなって、見てて思う。
30歳にして俺らは、藤田さんにとって子どもだった
藤田さんは、こっちが手を抜いたり、物を壊したり、規定にそぐわないことをやったり、何をやっても人を怒らないんだよね。例えばコミセンの事務局長だったからコミセンの鍵の管理を当然してるわけさ。その鍵を「お前ら青年協力隊だから好きに使え」ってポンって預けて、24時間体制で飲んで食って騒いでってのをコミセンでしてたわけさ。で、他の団体には畳の上での飲み食いっつうのは規約上ダメですとか、ここの部屋はアルコール、飲食OKだけど、あそこの部屋は一切だめですっていうのが、青年会はいいよって。22時になろうが24時なろうが、外からのクレームがくることだけはするなよって言う程度で、俺らがやった分には怒らない。他の人にあんだけ厳しいのに、俺らが汚したり、壊したりしたの後処理はやっててくれてたわけさ。それをずーっと見てるうちに「この人に迷惑かけちゃだめだよな」って。俺らのことを信じてるというよりね、育ててるっていう感じだった。今にして思えば30歳にして俺らは、あの人にとっては子どもだった。
人間としてこうなりたいなって、一番最初に出てくんのは藤田東一さん
反省って、誰に言われたから反省するもんじゃないと思うんだよ。「やっちまった」の後に反省って出てくるのさ。怒られたことに対する反省っておそらく何の役にも立たないと思う。自分の人生が変わるとか、次はこうしようとかっていうのにはならない。怒られてする反省っつうのは、怒られないようにしようという反省にしかなんないわけさ。要は怒られない逃げ道を探す。でも壊しちまった反省っつうのは、次は壊さないようにしようっていう反省になるじゃん。それをずっと経験させてくれてた。「20代、30代のうちに、周りからバカだって言われるくらいバカやれ」と言ってくれた人で。でもことあるごとに、次こういうことがやりたいんですけどって打ち合わせにいったり、なんか時間あってちょっと寄ってみましたってお茶飲みに行ったりすると、結構良いこと言ってくれるんだよね。でも世の中から見ると、頑固偏屈。にこにこしてる顔なんて見たことねぇな。まぁ、いろんな分野で抜き出てて、この人この分野すごいなって思う人はほんとに俺の中ではいっぱいいるけど。人間としてこうなりたいな、こうありたいな、こういう器持ちたいなって、一番最初に出てくんのは藤田東一さん。
もとの生活に戻るリハビリを始めなきゃいけない
俺が体育館からいなくたって全てのことが回るんだし、そんなに悩む必要もなかったなと。何を心配してたんだろうなと仮設移った後に思った。俺がいないならいないなりに、次の人流の運営方法っつうのは必ず出てくるし、それをさらっとやってくれた人がいるし。でも、仮設は体育館避難所よりはるかに高齢者率が高いから、それはちょっと心配してる。本来俺が心配すべきことではないんだろなという気持ちもあるけど。そろそろ義援金がどうのとか、支援物資がどうのとかっていう時期じゃないんだろうな。本当に収入がなくって本当に暮らせない人ってのは、もうきちっと生活保護申請してっていう時期に入ってるわけさ。そういう意味では、元に戻るリハビリを始めなきゃいけない時期にもう入っただろうなと。震災前にうちの部落に支援物資とか炊き出しってもちろん来たことないわけさ。なんか来てもらってそれに慣れちゃった。でも、いつまでもあるわけじゃないし、もともとあったもんじゃないし。その辺は今残る人が、どう考えるんだろうと思うとちょっと恐いかな。炊き出しも断ろうかなってずっと思ってる。
180人いれば180色あるんだよ
今年の4月にここの仮設で「正直、支援物資ってまだ必要ですか」って総会をやったわけさ。各部屋から1人は来てくださいって、でも実質来たのは52人かな。「もらえるものは何でももらいましょうよ」って欲しがってる人が多い。でも、物資は善意で来てるんだよっていう。善意は善意のもとで受けとらなきゃいけないと思うんだ。「善意を受け取るのにラッキーって思ったら、その善意を受け取る権利はあなたにはないよ」って俺は言いたい。ましてや、もらわなきゃ損するなんて考えて支援物資受け取ったら、支援する側の気持ちはどうなんのっていう。女性用生理用品をもらわなきゃ損するってもらいに来たおじさんとかね。なんだかわかんねぇけど、みんなが並んでるから俺も並んだみたいな。そういう人に限って、全戸配布の回覧板回しても、うちには案内来てないとか平気で言うからねぇ。まぁお年寄りとかはまだ必要だって人が割と多い。最終的には「自治会長に判断を委ねるから、自治会長が必要と認めたものを選別してください」っていう結論に総会は落ち着いた。ただ総会の前から、もう俺がぎっちり漁業の方に行ってたから、そういう対応もどんどんできなくなってた。総会で「支援団体来たときに、挨拶したり、最後の片付けまで見たり、送り出したり、俺1人じゃ、もうとてもじゃないけど無理です」って言った。「もういいんじゃない」って言う人に限って、物をもらわなくても支援団体さんが帰るまで、並んで頭さげて、一緒に見送ってくれるの。でも欲しいって言ってる人に限って、来て配る段取りができるまで出て来ないで、配り始まってから出てきて、見送りもしない。「そういう人らのために俺はもう動けませんよ」って4月の段階ではっきり言った。それから何人かはちゃんとしてくれるんだけど、そういう人に限って自分のことだと思ってないんだよね。もうそういう人はそういう人と認めるしかないじゃない。別に60軒で182人いて、全部が全部俺と同じ考え方の人間が誰か1人でもいるかって、俺はいないって断言できるし。十人十色って言葉があるけど、180人いれば180色あるんだよ。ただ想定の範囲外の人がいないから俺にとってはラッキーで考えてる。犯罪犯してまでとかそこまで考えてる人はいない思ってるから。まぁそこまで誰もいかなければ、とりあえず俺は組んでいけるなって。
相手のことを認めようとしない人同士の会話には、入っていけない
自分の意見は正しいと思って、人の話を聞かない人っているじゃん、そういうのは面倒くさい。例えば目標が1つあって、今現状がこうで、そこへの行き先がいくつもあるなって頭の中で考えてるのさ。そんなかで最短距離が2本あるかなって。「俺はこっちだと思う」「俺はあっちだと思う」ってお互いに相手の言ってることの弱点だけをつつき合う会話をしてると俺は思いっきり引く。正解かどうかなんてわかんないし、最短距離が1本に見えない以上どっちでもいいじゃん、そんなにけんかすることなんてないでしょうっていう。その仲裁だけは本当に苦手。相手のことを認めようとしない人同士の会話には、とってもじゃないけど入っていけない。で、それが自分の考えはこうだからじゃなくて、あの人嫌いだから、いつも面倒くさいこと言うからっていう感じで否定が始まるわけさ。言ってることの穴をつついてるんだけど、実はその人をただ単につつきたいと。同じことを別の人が言ったらスルーして通すよね。でもこの人が言ったから反対してんだよねっていうのが見え見えの時があって。こっちの人も売り言葉に買い言葉で引かないし。そういうところに行くと、終わったら呼んでって形でいなくなっちゃう。
ひねくれもんなのか遠回りの努力が好き
誰だって、できることであれば立派な人間になりたいって思うと思うのさ。考え方スマートで、やることスマートでっていう人間になれたらいいなって思うと思うし。じゃあどうすんのって言われると難しいし、どうしたらいいか一朝一夕にできないっていうのは誰しも理解できると思う。努力っていうのはあんま好きではないんだけど、ひねくれもんなのか遠回りの努力が好きで、最短距離を走るのはむしろ俺は嫌な方で。立派な人間になりたいという意識はずっとあるけど、何も知らない立派な人間になりたいとは思わない。まぁ程度の問題はあるけど、周りからやめろって言われるようなことも自分でやって、「あ、やっちゃいけないことなんだな」って実感してからやめたい。「やめろ。俺もやったけど、後悔したからやめろ」という言い方をしたい。例えばタバコはこういう害があるからっていう言い方は誰でもできる。けど吸ったから自分は後悔した、だからやめろって言うのは全然説得力が違うじゃん。程度の問題はあっても、いたずらなことをいろいろやってみたい。まぁ俺の人生、決してほめられたことはやってきてないよ。
初めて食う人にまずい牡蠣を食わせないで
おいしい牡蠣つくってって言いたい。もちろんここより環境の良いとこはあるし。ここより環境が悪くて味出せないところもある。でもやることやってんのかなと思ってみるとそうでもない。そういう人らが結構築地に行って、どこ視察したら良いって言うと結構こっちに指名が入って来てるわけさ。で、年間こうやってこうやってこうやってって言うと「うちは無理だなぁ」とか「年寄りは頭堅いからなかなか話進まねぇな」という話になる。で、成果は結局ひとつも出せずに帰って行くわけだけど。そういう人らって正直安い牡蠣になるわけさ。1粒500円、800円、1000円もする牡蠣を誰が食うかっつったら、ほんとは世の中の何パーセントの金持ちしか食えない。でも俺らが初めにその牡蠣を食ってほしいのは、そういう人じゃなくて、初めて牡蠣を食う人に食ってほしい。世の中に安かろう、悪かろうの牡蠣があるために、入口で牡蠣っておいしくないもんだって思われたら牡蠣の消費者がどんどん減ってくわけさ。それってものすごいマイナス。しかも一番最初に食ったので、牡蠣で食あたり起こしたり、まずいって思ったら、後一生牡蠣食わないんだよ。食わなくても全然困るもんじゃないからね。酒とかだったらね付き合いで飲まなきゃいけない時ってあるでしょ。でも牡蠣とかって選択できるのさ。「私、牡蠣嫌いっすから」って普通に言える食い物なわけよ。そういう人にまずい牡蠣を食わせないでって。
評価=金じゃない
俺らはそれなりに生活できる金額もらってるから、単に高く売らなくたっていいから、利益を出すための個人直販じゃなくって、初めて食う人の個人直販。グルメ通の人が食って「あぁ、前食った牡蠣より落ちるね」って言われるかもしんないけど、初めて食った人が牡蠣を嫌いになる牡蠣じゃないと信じてる。うちに来て「牡蠣嫌いだったんですけど、食えるようになりました」とか言う人が何人もいる。「何件か友だちに頼まれて送って、その親戚が気に入っちゃって。うちにお歳暮を全部頼みます」っていう人も何人かいて。それから派生して、どんどん広がって、震災前に3億くらい米崎だけであげてたのかな。3億って金額だけで聞くと大きいんだけど、利益になるとものすごいガタっと下がるじゃん。
米崎の牡蠣の利益率は割と高くて、3000万あげれば、家建てて、車買って、良い生活ができる。明日どこ行こうかな、ディズニーランド行ってこようかなっていう生活ができるんだけど、ぼろ儲けする必要はないと思う。自分の生活を脅かすほど安売りするつもりはもちろんないけど、ほんとに金持ちしか食えない牡蠣をつくりたいとは思わない。評価をしてもらえる分はもちろんうれしいけど。評価=金じゃないと思ってるから。そういうのは商売上手な人に任せる。俺はそっちは無理だから。
高田市内の人間でさえ危険な場所って忘れている人がいる
今せっかくこんだけの人がぞろぞろ来てるのに、一本松の周りに家くらい建てろよっていう。共同でお土産ショップ出して、陸前高田の物産をズラッと全部並べるっつうのはどうだって。でもこんな危険な場所で商売して、人が集まって良いですよっていう環境をつくって良い場所か。高田市内の人間でさえ危険な場所って忘れている人いる。1000年にいっぺんのがこないだ来たばっかりだから、後来ないと思ってる。18メートルの津波じゃなくたって、今の状態だったら1メートルの津波でも大変なことになるんだよ。
街づくり全体を長い時間で間違ったんだよ
陸上に被害があった最後の津波は、陸前高田限定で言うと昭和33年のチリ地震津波じゃねぇかな。そのときの高さを基準に東日本大震災で倒されちゃった防潮堤をつくったんだよ。それ以後、防潮堤がなくてもそんなに陸に上がるような津波はほとんどきてない。でも、じいさんはあそこの避難所は低いから逃げるなって。あそこの避難所は低いって言っても、どこまで来るか、高い方に想定してればよかったんだけど、高い方に想定してないから、利便が良くてみんなにわかりやすくて、かつ自分たちの住んでる部落の中に避難所をつくろうとするわけさ。隣の地区にうちらの避難所っていう設定はしてないのよ、だから低いとこしかない部落って、低いところにしか避難所をつくれない。街づくり全体を長い時間で間違ったんだよ。
高田はみんなでやられて、みんなでがんばんなきゃって
気仙沼や大船渡の場合、半分やられてて、今暮らすための最低限の商店街は残ったのよ。高田って何もないじゃん。高田はみんなやられて、みんなでがんばんなきゃって雰囲気なんだけど、気仙沼、大船渡に至っては買い物できるところもガソリンスタンドも残ってた。だから直接津波受けていない人が、もう忘れ去っても全然困んない状態になってるから、余計話がややこしくなる。高田って買い物に行けば被災を思い出すもん。気仙沼の人はずっとエリアを選べば、被災した状況をもう見なくて暮らせるんだもん。でも、亡くなった人をいつまでも引きずっていられない、生きてる人間が生きて行かないといけないんだっていうのを高田の人間が言うのと気仙沼の人間が言うのは、意味合いが思いっきり変わるわけさ。被災した人間が復活しなくても、残った人間が困んないんだもん。
SNSは問題も発生するけど、リターンもでかい
陸前高田は、一番人数やられて、さらに上空からの映像とか最初の頃に消防団が撮った津波に追っかけられる映像がね、一番最初に世界中に流れたときに陸前高田っていう言葉がものすごい有名になった。そこに追い打ちかけるように一本松でしょ。陸前高田への支援ってのは他の市町村に比べてものすごい比率で入った。そのおかげで、とりあえず生きてくのには困らないくらいへの改善っていうのは早かったわけさ。だから、もう物資や炊き出しっていう時期じゃない。今は新しいコミュニケーションをつくっていくための交流とかっていう話になるけど、それはあくまで陸前高田の場合であって、地域によっては、それは言えないだろうなと推測するしかない。もうニュースに取り上げられることもないでしょ。変化がなければ、ニュースに出ないんだもん。陸前高田は情報発信してる。SNS、ツイッターやフェイスブックを使うと問題も発生するんだけど、やっぱりリターンでかいんだよね。もしツイッターとかがないと大変だと思うね。やっぱ忘れられるのは恐い。
自分の稼いだもんは自分のものだと思いたい、だから復興が遅い
今になって阪神淡路震災、東日本大震災、中越って地震の復興の比較ってのがどんどんされてるわけさ。東日本大震災は遅い。決まるのも遅いし、進むのも遅い。最近になってわかってきたのが、阪神淡路震災の復興の投資金って半分以上が民間企業なのさ。ある程度の利益を見込める可能性がある。東日本はそうはいかねぇもんなぁ。何件かやってるんだけど、田舎に行くほどファンドって嫌われるんだよ。なんでかって言ったら自分の稼いだもんは自分のものだと思いたい。でもファンドって初期投資する金がないからファンドで金を集めて、集まった金で一気に規模でかくやって、でも利益を投資家に還元するっていう。自分は金がなくてやりてぃことができない。投資家はリスクはあるけど、この人の考えに賛同してお金を出したら、現金と満足感が返ってくる。それがファンドなんだけど、田舎に行けば行くほど、つくった大根は俺のものだと、つくった牡蠣は俺のものだっていう考え方が強くて、投資というものの認識がないんだよね。そんなのもあって補助金を断った漁協とか市町も結構あるんだよね。補助金をもらうのは良いけど、獲った牡蠣は出したくない。そんなおいしい話なんて、そうそうないんだよね。それを受け入れられないのが田舎なんで復興が遅い。
ふざけて写真撮った観光客をぶん殴りたくなったな
1年目は、観光客がふざけて写真撮っててぶん殴りたくなったな。お前の足元、家あったんだぞって。人亡くなってるかもしんないんだぞって。桜植えながら思ってたのが、1本1本の桜が墓に供えてる菊のような気がして。ただ同じ場を見ても感じることは人それぞれだからしょうがねんだろうな。Vサイン出して写真撮るようなやつ来んなって言って、陸前高田の産業って成り立つのか。観光地って多かれ少なかれ、そういう人間を呼んで金落としてもらってなんぼじゃん。観光地側が人を選別できるのってほぼないと思う。
とっても悔しくて、次の世代にはそれを繰り返させたくない
桜ライン¥rensuji{311}の話の言いだしっぺは、桜の木をどこかに植えたいって言ったのが陸前高田市の青年団の会長である橋詰琢見で、それを相談受けたのが俺。それで根本にあんのが、陸前高田市長・戸羽太さんの書いた本に、いつか被災地に癒しとなる桜を植えたいっていう言葉を読んだことだね。で、青年団として桜を植える事業をやりたいと。
こういう事態に、若いのが集まる場所がないってのは絶対問題だから。若いのが意見出せるためには、集まる場所なきゃいけないから、うちの集会所使ってろっつって使わせてたのさ。そこで俺が相談受けて、青年団と言えども人住むところも決まんないのに、桜の公園じゃないよねって言って。でもどっかに植えようねって言った。じゃあどうするってなって、「これより先に家を建てるな」っていう石碑もあったし、もともと今回の津波で警告はあったと。1000年前の地層には今回と同じくらいの高さの津波来た地層が残ってる。もう20年も前から30年以内に宮城県沖を震源とする地震が来るってこんだけ警告受けてたのに、それが全然役に立たなかった。それがとっても悔しくて、なんとかしたい。次の世代にはそれを繰り返させたくないって俺が思ってて。じゃあ桜で、目に見える形で次の世代につないだらどうだって言いだした。
桜ってきれいでしょ。きれいなんだけど、実際に見に来たら、誰もにっこりとできないんだよな。桜はきれいなんだけど、悲しい桜なんだろうな。でも実際に植えてみるとさ、1本1本がここまできたんだよなって思う。この悔しさを繰り返してほしくない。
桜ライン311ってイメージがすごくきれいだからこそ、普通のNPOよりきれいじゃなきゃいけない
俺と橋詰で動き出して、橋詰が青年団のメンバーを巻き込むと。で、俺が青年団全体を見てて、青年団には情報発信力がまだまだだし、弱いところがあった。あと、会計に対してあまりにアバウトすぎた。正直ほんとにものすごい金額が動き出すだろうなって思ってて、青年団に扱える金額じゃない。数百万、へたすりゃ千万っていう話になる。青年団に透明性を担保した会計ができるかって考えた場合に非常に怖くて、NPOにその当時なろうって考えはなかったけど、NPOに準じたくらいの会計をちゃんとして、情報公開をちゃんとするのが必要だと思った。桜ライン¥rensuji{311}ってイメージがすごくきれいだからこそ、やることが普通のNPOよりきれいじゃなきゃいけないと。だから会計は独立させて専門家にお願いしたい。でも会計士を本格的に頼んだら年間何十万ってなっちゃうから、それをサポートしてくれる支援団体が知り合いにいたんで頼んだ。基本は青年団と会計と情報発信担当っていう位置付けやったんだけど、思ったより青年団が動かないし、橋詰さんは忙しいのもあったし、家族の介護もあったから次の代表に代わった。
やんないで後悔するんだったら、やって後悔しとけば良かった
慰霊という意味は正直最初はなかった。後世に同じ過ちを繰り返してほしくないというのでスタートしたんだけど、やっぱり植えてみて頭に浮かぶのは亡くなった友だちなんだよ。まだ見ぬ子孫ではなくて、植えるごとに亡くなった友だちの顔が浮かんでくる。だから1回目の植樹では、俺かなり泣いたよ。思い出しては泣き、思い出しては泣き。でも子どもの前では泣かないようにして、1人になると泣いてた。
だって悔しいもん、地震あったらこうやって誰と誰を避難さしてって言ってた消防団の仲間が、人を誘導するために流されたなんてさ、そんなバカな話ないよね。ましてや浜にいると、いつかこの防潮堤越えるような津波来る可能性あるよねって言ってたのに、それを発信できずにいた。今でもそうなんだけど、震災からずっと俺、自分に腹立ってる。
まぁ周りにも文句言うことあるけど、なんでこんなところに市役所建てたんだって思ったことあったけど、震災前に自分にできることあったよね、気づいてたことあったよねって。俺それ言ってないよね、俺ってバカだよなって。もしかすっとあの友だち殺したの俺かもしんない。やんないで後悔するんだったら、やって後悔しとけば良かった。だから、失ってから後悔するよりも、起きるかもしれない1%のことに努力を惜しまない。それが今の活動に繋がってる。