【陸前高田】
話し手 ── 菅原 克子さん
聞き手 ── 田渕 千郷
聞いた日 ── 2016年8月4日
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幼い頃、母親のお手伝いをすることは生活の一部だった
私は菅原克子といいます。昭和17年10月25日生まれです。父親が早くに亡くなったんで、母、5人姉妹の6人家族だったんですよ。明るい性格で常に走り回っていました。私はね、末っ子だからね、どっか人に甘えてるとこあんの。しっかりしてる様でも、どっか甘えてんの。自分では、ちゃんとしてる気してっけどね。
母親は魚市場から鰯(イワシ)を買って来て、その鰯を煮干しに加工する仕事をしていました。今ならば乾燥機っていうのもあるけど、その当時は天日干しなの。だから、朝、学校行く前にその煮干しを干して、学校から帰って来たらまたそれを片付けて。そんな感じで仕事をするってことを苦とは感じずに育って来たわけ。手伝うことは当たり前で、生活の一部だったね。
近所の人に育てられた幼少期
私と一番上の姉はね、親子くらい年が離れてたの。そんで、私のすぐ上の姉と、上から二番目の姉は、父親の弟のところに子どもがいなかったので、満州で仕事をしていたその叔父のところへ行ってた。三番目の姉も一ノ関の高等学校へ入って下宿したの。だから、私、1人で育ったような気がするの。
でも、地域の人の面倒見が良かったのよね。うちには田んぼとか畑があったから、野良仕事に行っていると、隣のうちのお店のおばあちゃんが「今日も1人でいたのか」って。そんで、「ずんね、ずんね」って。お利口さんだねって、油で揚げたあんぱん持って来てくれたりしてね。近所のおばあちゃんに育てられた感じだね。んだから、私は周りに恵まれてたと思います。
そんなこともあってか、幼いときから人を思いやる気持ちはありましたよね。なんつうかね、誰かが困っているときには、頭で考えるより、まず、さっと手が出ていく感じ。別にこれがこうだとか、ああだとかいうことじゃなくて、体に植えつけてしまってっから、自然に動いちゃうんです。
幼い頃の姉との不調和
姉2人は終戦後に満州から帰って来ました。で、2つ違いのすぐ上の姉とは、なんか、育った環境がそれぞれ違うから、最初は仲良くなれなかったの。私はなりたかったけど。その姉がね、作文を書いたのね。「私の母は継母です」って。向こうは向こうで辛かったんだろうね。あと、姉は中国では比較的にぎやかなところにいたんですって。でも、うちの方は田舎で、浜の近くだから言葉が荒いんですよ。そんな気持ちがなくても言葉がきつくてね。そのことも姉の中では悩みだったみたいです。
でも、小学校2年くらいになったら仲良くなった。やっぱりね、子育てって大切ですよ。子どもの時期にはどんな事情があろうともね、親の手から離れないようにしないとね。
みんなで育てた蚕のお金で行った修学旅行
小学校の思い出ね。みんな、貧困だったの、当時は。でも、うちは、母親がさっき言った鰯を煮干しに加工する仕事をしてたから、現金収入はそこそこあったの。だから、お金がないってことがわからなかったの。後になってから気づいたんだけど、6年のときの修学旅行にお金がなくて行けない人がいたの。みんな行きたいけど、家庭の事情で行けない人がいた。
そんな事情もあって、今じゃ考えられないけど、夏休みにね、教室でお蚕さんを育てたんです、お金に換えるために。うちのクラスは53名でね、何班かに別れて活動してた。男の子たちは山に行って桑の葉を採ってきてお蚕さんに餌をやって、私たち女の子は男の子のためのご飯を作るのね。大人の人たちにも手伝ってもらったと思うよ。
そうやって、お蚕さんを育てたおかげでね、みんなで修学旅行に行けた。行き先が盛岡でね、私たち一ノ関から盛岡まで、背もたれに白いカバーのついたね、きれいな列車で行ったの。繭を売って儲けたお金が結構あったってことですよね。
暴力は本当に嫌だった
中学校はね、長部小学校と気仙小学校がひとつになった、気仙中学校っていうところに行きました。でも、小学校は別々の環境で育ってきたから、今の子どもたちみたいにすぐ打ち解けられないんですよ。昔は携帯電話とかもないし、昔の子どもですから。だから、打ち解けないうちに卒業してしまった感じ。
部活はね、一応、バレー部に入ってたんです。でも、そんな盛んじゃないんです。私たちの時代。勉強はそこそこ。けんかもなくね。
中学のときは本当に特別な思い出もないけれど、嫌な思い出はあったね。っていうのはね、クラスの気仙町の方の男の子2人がね、きかなくて、きかなくて。「きかない」って「乱暴」ってことね。その子たちがおっかなくて、おっかなくて。その思い出はあるね。同級生を蹴ったり、ぶったりすることが平気だったの。私、女の中で育ってきたから、そんな暴力は本当に嫌だったの。だから、本当におっかなかった思い出があるね。その人たち、今でも私たちに何でもなかったようにして声かけてくんのね。でも、心のどこかに絶対に「嫌(イヤ!)っ」て残ってる。
見るもの全てが新鮮だった都会で学んだこと
中学を卒業して、私は着物なんかの縫い方とかを勉強する、和裁の学校に行ったの。高校に行く人は行ったけど、当時は少なかったの。だから、花嫁修業っていう感じで。そこに3年入ってたんだけど、あるとき、知り合いの娘さんが神奈川県藤沢市のゴルフ場に就職するってことを聞いたの。私も都会に出てみたいと思ってたから、母と姉に「私も行きたい」って話すと猛反対されてね。家出同然に地元を出て、そのゴルフ場に入社したの。
藤沢市での知らない人たちとの生活は、田舎育ちの私には見るもの全てが新鮮だった。本当に楽しい生活の場所でした。
んで、その後半年ほど経ち、1年ちょっと、東京にいた叔父のところへ行った。そこでいろんなことを学んだの。例えば、人への接し方。おじさんは建設業をしてたのね。人をいっぱい使って。そこで私は仕事をさせてもらいながら、おじさんの奥さんと一緒に過ごすなかでね、人への接し方をいろいろ学んだの。学問じゃないんですよね。人とのふれあいですよね。東京に出たおかげで今の私がある。だから、私は東京に出てよかったなあと思うの。
お姑さんとは本当の親子
で、私はこっちに戻ってきてね。「年頃だから結婚するように」ってね。23歳のときにお見合いして結婚したんだね。うちの姉の旦那さんのお母さんと、その後結婚することになる夫のお母さんが親戚だったから、紹介してもらったの。私は結婚するのは嫌だったんだけど、でもまあ嫁いでみたらね。どこに行ったって一緒なんだって、自分自身に言い聞かせて。私が嫁いだ時、夫の家は米崎ってところで旅館をしてたんです。そのあと、高田の方に移って、民宿になったんだけど。
私も嫁ですから、お姑さんといつも良いときばかりではないでしょ。だからね、お姑さんとけんかしてる夢、見たりすっときあんの。自分の言いたいことを思ってから寝てしまうんで、見るんだかなんだか。そんで、「ああ、夢でよかったな」って思うことが多々あったの。さっきも言ったけど、いじわるとか、もめごとは本当に嫌。だから、お姑さんとも一度も言い合いをしたことがない。人間だから、どうしたって接し方ひとつなんですよ。自分のその人への接し方が、相手の自分への接し方として、自分にそのまま返ってくるんですもん。
私の夫の兄弟もいっぱいいたの。でもね、お姑さんは、自分の子どもたちよりも私のことを頼りにしてくれた。お姑さんは晩年、体が弱くて病院さ入院してたの。そのときも私を頼りにしてくれた。あるときは、1日に13回も病院と家を往復したこともある。でも、私、大変と思わなかったね。んで、お姑さんがいよいよだって日に、「なに食べたい?」って聞いたら、「うちのご飯が食べたい」って。んだから、「んじゃ、私、明日、作ってくっから」って言ったの。でも、そのご飯、食べないで逝ってしまったの。何も苦しまずに逝ったからって言われて、ホッとしたんだけどね。
そんなわけで、私たち本当に親子です。私は他人だからとか、なんとかっていうことをお姑さんとは本当に思わないです。だから、一度もトラブル起こしたことない。それだけは私の財産。何も財産ないけど、それだけは私の財産。もめごとは嫌。絶対、嫌。だって、鏡だもん。言ったら言った分だけ返ってくるんだもん。その分、自分が与えた優しさは返ってくる。私も息子にお嫁さんが来たから、お姑さん一年生。私も、私のお姑さんみたいになりたいなって思ってるの。特別、何もないけれど、トラブルだけは嫌だなって。お互いに、目には見えない傷を心につくるのは嫌だもんね。
大変だった子育て
子どもは2人もうけた。娘と息子。私、娘を交通事故に遭わせてしまったことがあるの。私が見てる前で。3歳のときに。当時、自宅の前に移動販売車が来ててね。その日も、私、移動販売車に買い物に行ったのね。そしたら、向こうから入ってきた車に飛ばされてしまってね。視力は衰えなかったから良かったけど、目を怪我したの。そんな怪我をさせたから、「ああ、子どもだけは本当、自分の力で守らなきゃ」と思って育ててました。息子は傷もなく育ったけど、虚弱体質でね。小学校入るまで入退院の繰り返しでね。風邪を引きやすい体質で。そんな子育てでした。あとは、民宿のお客さんたちも、うちの子どもを抱っこしたりしてね、一緒に遊んでくれたりしたんです。そんな思い出があります。
生かされた命
2011年3月11日はちょうど、うちにいたの。娘は近くへ嫁いだんだけど、旦那さんが震災の2カ月くらい前に亡くなったの。それで、娘は自分の仕事と子育てとで疲れてしまって、娘と孫がうちに泊まっとったのね。で、その日は自分の家に帰る予定だったんだけど、娘は、なんか、「今日も泊まりたい」って言ったの。で、泊まることになったんだけど、娘の嫁ぎ先のお母さんが、帰ってくると思ってカレーを作り過ぎたからって、こっちに持ってきてくれたの。
それと同時に孫がね、午前中にね、リンゴを丸かじりして、のどに引っ掛けたの。私、たまげてしまって救急車を呼んで、県立病院に行ったの。でも、餅やキャンディーじゃないから大丈夫って言われて、ほっとして帰ってきたの。それでうちで昼寝してたの。
それからすぐに地震が来た。だから、孫も向こうのお母さんもみんな一緒にいて、一緒に避難できた。あのまま病院にいたら津波に遭ってた。向こうのお母さんの家も、ここの家より浜に近いところだったの。だから、自分のうちに帰っていたら、向こうのお母さん1人で、おむつ持ったり、ミルク持ったり、財布とかなんとかっていったらば、絶対に助からなかったと思います。向こうの家の周辺の人たちは、みんな亡くなってしまいましたもんね。避難所に津波が到達してしまって。
だから、孫は本当に救われたの。生かされた命なの。あとね、その2日後から、小学校の生徒さん30人も合宿で来る予定だったの。もし、その子たちを連れて逃げるってなっていたら大変ですよね。だから、「ああ、よかったな」って思ったの。2日早いだけで、こんな違いが。私も生かされたって感じね。
地震に対する昔の人たちの言い伝え
私たちの住んでた地域の避難場所は市民体育館だったんです。でも、市民体育館はうちと同じ高さに建ってた。だから、うちに津波が来るときは体育館にも来る。「体育館は危険だ」って家族と話はしててね。だから、当日もなんつうか、体がそのように向いてね。高台にある親戚の家に避難しました。
私は気仙町で育ったから、常に地震っていうと、津波っていうことを小さいうちから身につけられてきたのね。しかも、今みたいにテレビもない時代。情報が豊富じゃなかったの。だから、地震が来たらすぐに避難するってこと、常に高台に避難するってことを小さい頃から心がけていました。やっぱり、なんつうの、情報だけあてにしてもダメだもんね。昔の人たちの言い伝え通りに私は育ってきたから、今もこう体に染み付いてしまっているね。体が動くのね。
プランターに支えられた仮設住宅での2年間
それから2カ月間、高台のその親戚のうちで生活していました。その後、向こうのお母さんは1人で仮設に入ったし、娘や孫は私たち家族と一緒に仮設で生活して今に至っているの。仮設住宅には2年入っていたの。ストレスがあってね。私だけじゃない、みんな。だからね、私は仮設住宅で、プランターに花を育てたりなんかしてね。そのお花を見たり、手入れしたりするのが唯一のストレス解消だったんです、本当に。
私ね、普通のプランターにね、スイカの苗を1本買ってきて植えたの。小玉スイカだと思って植えたからね、大きくなって大きくなって、びっくりしたね。そのスイカがおいしいころになったら、仮設の子どもさんたちを呼んでね、みんなにごちそうしようと思ってたの。「この仮設で初めて採れたスイカだよ」ってね。そしたらね、そのスイカがなる頃に、よそからどっさりトラックでスイカが来たわけ。なんだかそれは残念でした。
でも、仮設生活をしてなかったら、その経験もなかったですよ。花を育てたりね、みんながプランターの前で足を止めてくれるのを見たりすっと、うれしかったね。プランターは私を明るい気持ちにさせてくれました。私、一番支えられましたよ、そのプランターに。一瞬でも重い気持ちを軽くしてくれました。自然の力だね。「ああ、緑っていいな、癒されるな」って、そのとき、つくづく思ったね。
自衛隊の人たちに感謝
仮設の部屋は四畳半でね、ずっとそこにいるのは耐えられませんでした。プランターで植物育てるみたいに、何かしてないと気持ちがちっちゃくなりました。そんなときに、さんさ踊りを見に行こうって誘ってもらったの。あまり気は進まなかったけど、行ってみたら、自衛隊の人たちもさんさ踊りに出てたのね。私たちは仮設で自衛隊の人たちに支えられてたでしょ。仮設のお風呂に入れてもらったりして。だから、自衛隊の人たちを見たら、もう涙が止まらなかったね。
自衛隊のお風呂ってさ、よそ事と思ってたけど、自分たちが入れてもらったら、本当に感謝の気持ちでいっぱいだったね。今、よその被災地で「3日もお風呂に入ってません」って言ってっけど、あの頃の私たちを考えると、「いやあ、それは贅沢だよなあ」って思ってしまうの。水が来ないから、お手洗いで流す水は山の上の方まで汲みに行って使ってた。トイレの中がいっぱいになったときは排泄物を汲んで、脇の畑に穴を掘って、そこに入れて生活してたの。そんな生活をしてたから、2カ月ぶりのお風呂は本当にありがたかった。
ハプニングもあれはあれで良い思い出
仮設住宅のイベントでね、どんぶり料理を500円以内で出すっていう料理の大会が盛岡であったんです。そこに出す献立は何にするかって、みんなで集まって決めてね。地元のものを使うってことで、この辺ではシュウリ貝のどんぶりを作るってことになりました。みんなで練習して、大会前日も上手く作れたの。
そしてね、本番当日、もう盛岡に着くってときにね、「シュウリ貝を忘れてきた」って言うの。もうたまげてしまってね。「どうすっぺ。どうすっぺ」って。会場に持って来てもらうってなったけど、着いたときにはもう大会は始まってしまってた。だから、失格になったのね。で、その様子がね、ビデオに納まってるのね。大会会場でみんな慌てふためいてるの。「まだだべか。まだだべか。まだ来ねえべか」って。それが、おもしろくてね。大会の帰りにはみんなで笑いながら帰ってきたし、大会で賞を取れなくても、こうやって今でもみんなで笑えますし。あれはあれでね、良い思い出だったね。本当に楽しかった。良い思い出になった。
分かち合うこと思い起こさせてくれた仮設生活
私、仮設に入ったとき、本当に最初はこのままこうやって生活していって、みんなと打ち解けられるのかなと思うほどだったの。っていうのは、寝てられないから。みんな、朝早くに起きてね、家庭で出たゴミのペットボトルを砂利の上で潰し出す人もいるわけ。でも、だんだん、みんな、そんなこともしなくなってね。みんな、わかり合えるようになってきたの。仮設のおばあちゃんたちも、「みんなで夕涼みすっぺ」って縁台を出してからにね、おしゃべりが始まんの。仮設は良い思い出でした。本当に。救援物資でもなんでも分け合って生活してたからね。だから、惜しげもなく物を捨てていたときのことをすっかり忘れて、分かち合うことを思い起こさせてくれました。
震災後も抱え続けた心のつかえ
私が前、住んでたところの周りの人はたくさん亡くなってしまいました。私、近所に住んでいたマツノさんって方を車に乗せずに逃げてしまってね。それが心に残って残って残って。一生懸命になって避難所を回って探したんだけど見つかんなくて、最終的には亡くなっていたことが分かった。私、近所だった人に言ったの。「マツノさんを乗せないで、私だけ、逃げてしまったの」って。そしたら、「マツノさんは助からねえ人だったんだ」って。その方がマツノさんを乗せたんだって。「自分たちは高台に避難するから一緒に行こう」って言ったのに、「いいから、避難所の体育館で降ろしてけれ」つって、降りたんだって。その人にそう言われたとき、心のつかえっていうものがね、すっととれた。
沼田屋再建の活力、それは人の優しさ
震災後、もう、この仕事はやりたくないと思ったの。年齢的にも卒業してもいい年齢なんです。でも、支援などで海外や遠くから来る人、来る人が、「泊まるとこない」「泊まるとこない」て言うんです。それを聞いて、「お世話ばっかなって、このままじゃいけない。このまま生涯終わりたくない」って思ったの。何か自分にできないかって思っても、何もできるもんない。でも、私にはこの仕事があったのね。やっぱり、沼田屋を再建したのは、自衛隊の方々とか、支援に来てくれる方々の優しさへの恩返しだよね。本当に人の優しさが活力になって、また前に進もうって。
わからないことだらけの再建への道のり
再建しようと思ってもお金がないから、グループ補助っていう、震災で被災した中小企業の復旧を支援するための復興支援を受けたんです。でも私、もう締め切りっていうくらいのぎりぎりに申し込んだんです。だから、グループ内の他の人たちはもう勉強会もやって話は進んじゃってて、初めは全然、話がわかんなかったの。そんなこともあって、先に進んでた人たちに「何、また一から話し直さなければだめなの」って嫌味を言われたりすることもあったけど、そこは申し訳ないと思いながらも、耳を塞ぎながらね。
仮設の部屋のお勝手のところにテーブルを置いてね、そこで書類を書いてた。当時は電話もファックスもなかったでしょ。でも、県に提出する資料には「ファックスで送ってください」って書いてあるの。だから、コンビニに行ってファックスを送ってね。でも、その送り方もわからなかったりしてね。本当に私1人じゃ大変な書類でした。私たち、グループ補助を受けるグループの中でも、最初の方だったから、役所の方もまだ慣れてなかったのね。だから、「わあ、とんでもないものに参加してしまったな」と思ったこともあったね。でもね、再建した後、震災前のお客さんがまた、沼田屋を見つけて来てくれたりしてね。お客さんと「わあ、生きてたんだ」「おかげさんで、生きてたの」って、抱き合って泣いたこともあったね。
人間の力は無限
日中、騒いでるうちはいいんだけど、夜になると眠れないことも多々ありました。朝まで全然眠れないんですもんね。考えれば考える程、眠れなくなるんです。みんな、そうだったでしょ。おそらく。
でもね、私、震災も悪くなかったような気がするの。一戸建てに住んでいたら忘れてた、分かち合うことを思い出せた。だからね、やっぱり良い思い出がいっぱいあったなって。あとね、私、思うんだけど、人間の力って強いなって。無限だなと思う。だって、瓦礫の山だったんですよ。もう本当に、何をするにも普通だったら落ち込んでしまうよね。だけども、こっちの人は黙々と作業してた。やっぱり、それが地域愛なんだろうね。ここには懐かしい思い出があって、ここは自分自身の財産であり、誇りであり。でも、まだ取り戻せてないね。まだスタートにも立ててない。
好きなこの仕事、一生現役
私、働けるうちは、絶対に人に迷惑をかけないような生き方をしたいと思ってるの。これから先どうなるか不安だけどね。街もどうなるかわかんない。人口がどんどん減ってくしね。不安だけども、乗ってしまった船だしね。
私はこの人生でお姑さんに出会えて本当によかった。出会えてなかったら、私の今のこの仕事もなかっただろうし。嫌だったら逃げただろうし。やっぱ好きなんだろうね。この仕事が。人と接するのが。だから、私はやり続けたい。一生現役。沼田屋を守り続けること、それが私の生きる意味。
【聞き手の一言】
菅原克子さんが大女将をされている民宿 沼田屋は、2011年3月11日の東日本大震災での津波により流されてしまい休業を余儀なくされました。しかし、2014年7月31日に場所を変え、営業を再開されました。
私が初めて岩手県陸前高田市へ訪れ、菅原克子さんのお話をうかがったのは、東日本大震災から6年目の夏でした。今も尚、かさ上げ工事が行われ、行方不明者の捜索も行われているという現実に、大きな衝撃を受けました。そんな中でも、生かされた者として、顔を上げ、思いやりの心を持ち、たくましく生きておられる菅原克子さんは、私もこうでありたいと願う、理想の女性でした。菅原克子さんの人生が、読んでくださった方々1人ひとりを励まし、それぞれの人生を見つめ直すきっかけとなることを願い、この作品を多くの方々へお届けしていきます。
田渕 千郷