【ウガンダ】
話し手 ── 吉田 真理子さん
聞き手 ── 田中 紗千乃
聞いた日 ── 2016年8月21日
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ウガンダ人と結婚して2人の子どもを育てる吉田真理子さん
吉田真理子です。1983年に東京で生まれて、東京でしばらく育ちました。3歳から6歳までは父親の仕事でブラジルで育ち、小学校から高校までは東京で、そのあとアメリカの大学に進学しました。家族構成はお父さんとお母さんと3歳下の弟です。
ブラジルに居た時はあまり記憶はないけれど、普通に日本で生活するのとは違い、周りに自分とは肌の色が違う人がいて、自分の親と話している言葉とは全く違う言葉が飛び交っている環境にいたから、そういう世界があることは、幼い頃からわかっていたかもしれないです。
英語は補習組
私は小学校は公立に通い、中学校受験をして中学・高校・大学まで一貫の女子校に入りました。だから中学・高校の6年間、女子校。小学校のころは、あんまり本を読まなかったからか、国語がすごい苦手で、その分、逆に数式の通りに解いたら答えが出てくる算数の方が好きでした。中学校に入っても国語が苦手なのに変わりはなく、さらに英語が苦手で、1年生のころから英語は補修組でした。
数学の他に工作的なものも好きで、図画工作の授業でなにかを描いたり彫ったりするのも楽しかったし、被服の授業で服を縫うのも好きでした。高校生になったら附属の幼稚園に行って幼稚園児のお世話をしました。その学校は当時、受験校ではなかったので、主要5科目よりはそれ以外の授業が充実していて、家の中のことができる良き女性になるための教育を受けてきた気がします。
もっと広い世界を見てみたい
将来いかに良き主婦になるかを学ぶような教育を受け、そういうふうになりたい人には良かったと思うけれど、私は窮屈に感じた反動で外に目が向きました。
中高大一貫なので、大学までそのまま上がるという約束で中学に入学し、友だちにもとても恵まれました。ただ、もっと広い世界を見てみたくて、他大学の受験を考えるようになりました。他の大学を受けるには、上の大学にない学科に行きたいとか、上の大学にないものを学びたいとか、何かしら理由が必要でした。その時にいろいろ見て、人間科学という学科に興味を持ちました。そこで人間科学の学科がある大学を受験することを学校に伝えました。親の反対は特になく、「受験勉強、頑張りなさい」という感じでした。
「人間科学を学びたい」というのは、どちらかというと後付けの理由で、ただ、たくさん学部や学科がある中で人間科学は人間についてを幅広く学ぶので、何を専門に勉強するか絞れない私には都合のよい学科でした。実際、高校1年生の時は、将来何になりたいとか、こういうことをしたいというのがはっきり分かりませんでした。分からないうちに無理やり将来を決めるよりは、もっと学んでから将来のことを考えたいと思いました。
海外の大学に行くのはすごく難しいと思っていたところ、ある程度調べみたら、意外とアメリカの大学に、私みたいな人でも行けるということがわかって、アメリカに行くことに決めました。
アメリカの大学に行くことに不安はあったけれど、それよりも、もっと新しい世界、違う世界を見てみたいという気持ちの方が大きかったです。何かアメリカに憧れを抱いていて、きっと素晴らしい世界が広がっているんだろうと思っていたから、不安よりもワクワクした気持ちでいました。
英語を話せると10億人と話せる
アメリカに興味を持ったのは、高校1年生の時に英語の先生が旅行に行った時のアルバムを見せてくれたり、その先生とアメリカ人のネイティブの先生がペラペラ英語で会話しているのを見たりして、憧れを抱いたのがきっかけでした。それと英会話教室のCMで英語が喋れると10億人と喋れるというフレーズがあって、日本人は1億人ちょっとだけど、英語が喋れるとその10倍以上の人と喋れるようになる、そんな英語ができたら面白そうだなと思って、海外や英語に憧れるようになりました。
アメリカの大学は入るのが簡単で、出るのが難しいと言われていて、高校の成績表やTOFELのスコアを提出しました。受験する時点ではそんなに大変ではなく、逆に入ってから卒業する方がよっぽど大変でした。
英語はわからないのに数学はできる子
アメリカのアイオワ州のスーシティという町にある大学に入りました。すごい田舎で、アメリカにはどこでもスターバックスカフェがあると思いこんでいたところ、その町には入学当時ありませんでした。とにかく言葉が大変で、アメリカ人の英語は恐ろしく速いし、高校3年生までの英語はちゃんと勉強したつもりが、3歳くらいの小さい子が話す英語も聞き取れませんでした。3歳くらいの子供が話すことは、何がほしい、何がしたいと簡単なものだと思っていましたが、それすら聞き取れず、日本で勉強してきた英語はなんだったんだろうと自分にがっかりしました。
大学1年の時に授業にでてきた数学は日本の高校1年生で学んでいたことだったから、私にとってはすごく簡単でした。クラスメイトは計算機を使うから暗算できる人が少なくて、私が授業の中で2ケタの計算を暗算ですぐやっちゃうと、「なんでこの子は、英語はわからないのに、数学はこんなにできるの」という不思議な目で見られました。
大学1年生のうちは言葉がそんなにできなくても、数学・美術・音楽あたりの授業を先にとって、授業や生活の中で英語に慣れていくようにしました。簡単な会話は半年ぐらいで分かるようになるけれど、それでも授業の英語はどんなに読んでも読んでもわからない単語ばかりでした。毎回辞書を引いて、辞書の日本語の意味が理解できない時はさらにその日本語を国語辞典で調べなければならなかったので、元々国語が苦手な私は大分苦労しました。
幸い田舎だったこともあり、人はみんな優しく、仲良くなったルームメイトも助けてくれました。
何かを成し遂げて自信をつけたい
半年くらい経過したところで水泳部が新しくできました。本来はトライアルを受けるところ、新入部員を集めていたため歓迎されて水泳部にそのまま入れてもらいました。シーズン中は朝6時に起きて、寝ぼけたまま寮の目の前にあるプールに飛び込んで練習し、そのまま授業に駆け込んで、お昼ご飯を食べて、午後の授業に出て、部活の午後練という生活をしていました。週末は試合で遠征していることが多く、その頃は毎日が過密スケジュールでした。特技と言えるのかわからないけれど、頭が寝たままでも泳げるようになりました。お昼頃には、朝、何を食べたか、何を泳いだか覚えていませんでした。
その頃、自分に自信がなく、常にしんどかったけれど、NAIA(National Association of Intercollegiate Athletics)という小さい規模の大学が集まる連合にその水泳部が所属していて、地道に練習を続けて、最後の年にNAIAの全米大会のリレーのメンバーに選んでもらえました。その時に親が日本から応援に来てくれて、それが大学生時代で一番うれしい瞬間でした。もちろん卒業した瞬間もうれしかったけれど、水泳で全米大会に行けた時は「できると信じて努力すれば、こんな自分でもできるんだ」と自信のない自分を払しょくすることができました。
人材資源管理を専攻
1、2年生は幅広く教養を勉強して、3年生になるまでにある程度専攻をしぼりました。アメリカでは何年で卒業しないといけないというよりは、必要な単位数を取れば早く卒業することもできるし、逆に必要な単位数を取れなかったら卒業も遅くなる制度でした。
私は3年半で単位を取得して卒業できたけれど、3年目に入る時に「何をしようかな」と考えたところ、相変わらず、その時に何がやりたいか見えていませんでした。心理学の授業をとっていて、心理学には興味を持っていたのですが、大学のおばちゃんに「心理学はマスターをとらないと食べていけないよ」と言われたので、学卒ですぐに仕事につける学問を考えるようになりました。それで、比較的潰しがきく経営学で、その中でも心理学を交えながらビジネスを勉強できる人材資源管理を選びました。
将来に目を向ける重要な期間
アメリカの大学に進学して良かったなと思うのは、何をやりたいのか全く分かってない私に2年間の猶予をくれたこと。大学に入って最初の2年間、教養科目を勉強して、見識を広げたところで、次に何を深く勉強するかを決められたから、その2年の猶予は将来を決めるにあたってとても有意義な期間でした。
あとは、水泳部に入ったのだけど、言葉の壁があり泳ぐのも遅かったから、たぶんコーチにとっては、手のかかる選手だったはず。それでもたくさんの人が助けて応援してくれて全米大会にたどりつけました。努力すればできるようになると信じ続けて、継続したら達成できることを経験したから、自分に自信がついた。やればできることが分かり、アメリカ留学が自分を強くしてくれました。アメリカの大学に行かなかったら、こんなにも充実した経験はできませんでした。
人材サービスの会社を一通り受けた
就職活動は卒業してから始めようと思っていたけれど、父親に「日本では卒業してからだと新卒ではなく既卒になる」と言われて、卒業する前に日本に帰国して就職活動をしました。人材資源管理の勉強をしたこともあって、人材サービスの会社を一通り受けました。複数内定をいただき、その当時、業界2位の派遣会社に就職しました。
片っ端から応募し、会社の説明会に参加して話を聞いて、面接を受けると、なんとなく、この人たちと自分のカラーが合うなとか、ここは違うなとか相性が見えてきました。内定をいただいた企業がいくつかあり、そこで選べる立場になった時に、自分が面接を受けてしっくりくる、そこの社員の人たちとだったら仲良くできそうだなと一番思える内定先に決めました。きっと内定を出した側も、この人は自社のカラーに合う、一緒に働けるという感覚でいたのではないかと思いました。
企業理念に共感して就職
入社を決めた会社は社長が女性で、企業理念が「人々の成長」「雇用の創造」「社会貢献」の3本柱で、そこに共感し惹かれました。営業職として採用され、最初の半年くらいはずっと飛び込み営業をしていました。ビルの上から下まで片っ端から1社1社訪問して、「派遣スタッフさんはどうですか」と聞いて回っていました。
半年経過した頃、教育担当の先輩から一気に派遣スタッフさん70人くらいを引き継ぐことになりました。最初は派遣スタッフさんの名前と会社を覚えるので精一杯。それに追い打ちをかけたのが入社2年目に起こったリーマンショックでした。派遣切りという言葉が流行った頃です。結局、私が担当していたスタッフさんの半分くらいがその半年くらいでどんどん契約終了になり、仕事を失いました。
自分が無力であると思い知らされた
派遣先の企業が派遣スタッフさんに直接契約終了を伝えるのではなく、その間に入って企業からの意向をスタッフさんに伝えるのが私の役割でした。あるスタッフさんに契約終了を伝えたところ、そのスタッフさんが泣き出してしまいました。そのスタッフさんが、「私の夫もリストラされたばかりで、履歴書を何十社にも出しているけれど、面接にすらたどり着けないんです」と言われ、当時24歳の私は「お力になれず、申し訳ございません」以外に言葉が思いつかず、自分が無力であることを思い知らされた一番辛い経験でした。
実際は失業に直面する仕事
会社に就職するときは、派遣会社は女性が働きやすい環境を整えるために応援する会社だと思っていたけれど、リーマンショック後は仕事を失うスタッフさんを見届けることが多くなり、スタッフさんを助ける以前に、何もできませんでした。派遣で女性が働きやすくなったのかもわからないし、実際は失業と向き合う仕事ばっかりになってしまいました。どうにもこうにもできず、私も気落ちしていた時にJICA青年海外協力隊のポスターを見て、忘れていたものを思い出した気がしました。毎日の仕事が忙しくて忘れていましたが、20代のうちにまた海外に出たいという気持ちがあり、国内の景気が悪いのであれば海外に出るのにタイミングも良いかと応募しました。
JICA青年海外協力隊
協力隊の試験を受けるときに派遣先の希望を出すことができます。住んでいた中南米を避けると、行ったことがないのは中東とアフリカでした。何となく中東は危ないイメージがあったのでアフリカを考えていました。英語を活かせた方が貢献度が高いと思い、ウガンダを希望しました。私は手に職がないので、それでも受けられる村落開発普及員の要請をみていて、ウガンダには村落開発普及員の要請が多くあり、応募したら受かりました。
ウガンダには水がある
要請内容には首都の隣の県で水と衛生の活動と書かれていました。来るときは水がないカラカラの大地だと想像をふくらませていたら、飛行機でウガンダ上空を通った時に下を見ると緑が生い茂っていました。ヴィクトリア湖もあるし、雨季もあるし、サバンナというよりはジャングルでした。確かに水がない村もあるけれど、引き方がうまくないだけで、想像以上に水があることが分かりました。私は首都の隣のワキソ県に配属され、首都からも近く買い物にも行きやすい環境でした。来てみたら意外に、ものも揃っているので安心しました。
善意のつもりが甘やかしていた
JICAから水と衛生の活動をしてくださいと言われていたので、最初の2年間はガッツリ井戸修理の手配をし、少しでも多くの村人に安全な水を供給できるような活動をするべきだと思っていました。JICAからもそのような活動を期待されていたし、どんどん井戸修理をしなさいと言われていたから、何の疑いもなく井戸の修理の手配をしていました。
井戸を直した後はみんな「ワアー」って喜んで、満面の笑みをみると私も嬉しいし、それで良いことをしたと私は思い込んでいました。その修理した井戸が、ある程度、期間が経つと、また壊れだしました。直した時に「次に壊れた時は自分たちで貯めたお金を使って直してね」と言っていたのに、いざ壊れた時、「また直してよ」と言われ、がっかりしました。
私は善意でやっていたつもりが、彼らを甘やかしてしまい、結局、この間に彼らの成長は何も見られませんでした。ただ井戸がないと彼らは安全な水を手に入れることができず、清潔な環境で生活できないし、水は生きてく上で必須なので、持続可能な解決策を探さないといけないと思いました。
良いと思ってやったことが良くなかったと気づいた時は反省しました。ただ井戸修理をしていなかったら、この活動が良いのか悪いのかもわからなかったから、後悔はしていないです。このままじゃいけないなと思うきっかけにもなりました。良い援助はなかなか難しくて、甘やかしても駄目だし、彼ら自身でできるようにならないと彼らの成長にもならない。彼ら自身でできるようになるためには何が必要なのか、どうやったら依存から脱出して自立できるのかを考え続けました。
たどりついたのは収入向上
水を得るために井戸を建設したり、井戸を維持・管理するのはお金がかかるから、まず収入向上をちゃんとしなきゃと思い直しました。そのころ別の隊員に農業キャラバンをやろうと持ちかけてきた人がいて、私の配属先の県でそのイベントをやることになりました。農業の様々な分野の活動をする隊員が集まり、稲作、珍しい野菜や果物、家畜の飼料の作り方の紹介にとどまらず、家計簿のつけ方も含め、生活を向上させる要素を取り込んだイベントでした。そのお手伝いをして、農業を通して収入を増やせればいいなとを考え始めました。
ウガンダに帰ってくることを決めた
その農業キャラバンの時に現地の人たちの取りまとめをしていたのが今の夫のジョゼフです。農業キャラバンを開催した村はコーヒーの生産に力を入れていて、コーヒーの生産者組合もあります。ジョゼフはこのコーヒー組合のコンサルタントとして村に出入りしていました。ジョゼフは既にその頃から自分の畑を持っていて、白菜やチンゲン菜もすでに植わっていました。元々私が教えたわけではなく、彼は自分で始めて、収入源にしていました。
ジョゼフも含め、彼の周りに野菜栽培をしている人たちがいましたが、野菜を安値でローカルマーケットに卸していました。これをいかに高値で売るかを考えて、彼らの収入向上のお手伝いを始めました。任期は2年と決まっていましたが、後任がすぐに来なかったこともあり、期間を10カ月延長して野菜栽培をしている農家さんのサポートをしました。市場ではなく消費者に直接届けることで、高値で売ることができました。
それでジョゼフとも仲良くなり、隊員期間が終了するころにジョゼフと結婚するために、またウガンダに帰ることを決めました。
収入源として野菜を普及するための農業学校
ジョゼフは2009年からを圃場を運営していて、私が初めて訪問した時は、地面にただ野菜が植わっているだけでした。農業学校は私が言い出したわけではなくて、言い出したのは元々ジョゼフです。彼も他人に頼るのではなく自分で作物を育てていて、そこから収入を得て生活できるようになる方法や、ウガンダ人が自立できる方法を考えていました。
自分で試行錯誤を繰り返し、ある程度、野菜を育てられるようになり、失敗も少なくなりました。次はそのノウハウを周りの農家に広めて、自立できる人を増やしたいと思い始めたみたい。これを実行するには教える場所として農業学校が必要になり、圃場を農業学校にして、今はある程度形になってきました。
だから農業学校は私のアイデアではなくて、私は資金調達や販売、帳簿をつけるお手伝いをし、夫の夢に乗っかったというニュアンスが正しいです。
ドタバタ出産でまさかの帝王切開
幸い子供を授かり、ウガンダで出産することにしました。最初、自然分娩で出産する予定でしたが、いざ予定日が来た時に陣痛が全然始まらず、2日間、誘発剤を使っても駄目でした。このまま子供をお腹の中に入れていても大きくなるだけで自然分娩ができなくなるからと、帝王切開することになりました。周りでは私には理解できない医療用語の英語が飛び交っていました。ジョゼフも立ち会うことになり、呑気に「写真、撮ってもいいですか?」と先生に聞きはじめ、先生も「オッケー!」と軽いノリなので、「本当に大丈夫?!」と心配になりました。私は神様は熱心に信じない方ですが、その時ばかりは神様にすがりました。子どもは無事に生まれて、20代の最後に母親になりました。
ビジネスを通した共栄
妊婦のまま圃場の手伝いをしていたところ、日本の農水省補助事業である調査のお手伝いの話をいただきました。内容は、耕運機をはじめとする農業機械の普及を見込めるかという調査でした。出産して半年ほど経過し、北部のリラに赴き農家さんをまわりました。1年目は、大きい土地を保有している農家さんが人力で作付けしている土地の広さを確認し、家庭の支出と収入を聞いて回りました。2年目は、耕耘機を既に持っている農家さんと持っていない農家さんでは何が違うのかを調べました。
この調査の一環で、調査団体が日本の農機メーカーと株式会社3WM(以下3WM)を繋げました。3WMは名古屋に本社、ウガンダ、ドバイ、チリに支店を構え、中古車販売を営む日系企業です。3WMウガンダ支店が耕耘機の販売店になることが決まり、日本の耕運機がウガンダの農家さんの収入向上に繋げられるかを模索する調査をしていました。
私の中ではこの調査が楽しくて仕方ありませんでした。井戸修理の援助では農家さんの成長を促すことができなかったので、ビジネスベースで共栄できないかを模索していました。もちろん援助でももっと良い方法があったのかもしれませんが、援助する側、援助される側の間にある上下関係を取り除くのが非常に難しく、もらえるものは拒まない相手の真のニーズを正確に把握するのは至難の業だと思いました。ビジネスではウガンダ人と対等な立場で付き合うことができ、お金を払う対価をウガンダ人も考えて話してくれるので分かりやすいです。その点から、ビジネスの方がウガンダ人の成長を促すことができるという考えにたどり着きました。
耕運機を通してウガンダ人と日本人がウィンウィンな関係でつながり、お互いに良い相乗効果を生めるつなぎ役に自分がなれるかもしれない、自分にとっては大きなチャンスだと思いました。日本の耕耘機がウガンダの農家さんの収入向上に貢献したら、どんなに素晴らしいだろう。この調査がその重要な位置づけにあると思うと調査をしていて、この上なく楽しかったし、やりがいがありました。
この人の下で働いたらめちゃくちゃ伸びるだろうな
隊員の任期が終わる頃、3WMの川地支社長と会う機会がありました。そのときに直感で「この人すごいな」と感じました。剛腕のビジネスマンで周りの人をぐいぐい引っ張っていく印象を受けました。とにかく仕事ができるオーラがみなぎっていたし、この人の下で働いたらめちゃくちゃ伸びるだろうなと思っていました。
しばらくしてまた川地支社長と会った時に、「車は乗用車よりも商用車に集中して販売している」との話になりました。川地支社長がやりたいのは、ウガンダで雇用を生むことと、車を通してウガンダの経済成長に貢献すること。乗用車は家族で乗って終わりだけど、商用車を購入した人は車でビジネスをする、つまり経済活動が行われるわけだから、その部分のサポートをしたくて、商用車に注力しているという理由を教えてくれました。だから3WMには軽トラや大きいトラックばかりが並んでいます。
川地支社長も隣の国エチオピアで協力隊として活動した経験があります。その際、職業訓練校で学生にコンピューターの使い方を必死に教えたのにも関わらず、卒業生が職にありつけない状況を目の当たりにして、雇用を生むビジネスの必要性を感じたようです。アフリカ人の雇用を創造する、アフリカの経済成長に貢献する、私もそこに共感して面白いなと思いました。初めてお会いした時は、まさか川地支社長の元で働くとは想像すらつきませんでしたが、農業機械から繋がり、3WMで働く話をいただいた時には、喜んで受けさせてもらいました。
3WMのバックサポート
3WMでのお仕事は、初めは短期の予定でパートでした。従業員のエクセルの使い方や、書類の整理の仕方など、「ここがもっと良くなれば、もっとうまくいくのに」という部分の業務改善をしてほしいとの依頼で、従業員や書類と向き合うところから始まりました。
そうこうしている間に社内の体制も変わり、私の状況も変わり、3WMに長期でお世話になることになりました。思っていた以上に様々な業務を任せてもらえるようになりました。今はまだ仕事を引き継いだばかりですが、会計、人事、総務と幅広く業務をいただいています。各分野の私の知識はまだまだ浅いので、その都度聞いたり調べたりしながら業務にあたっています。
2012年に川地支社長をはじめとして2、3人で立ち上げたウガンダ支社は、現在35名の従業員を抱えるまでに成長しました。中古車販売に始まり、アフターケアもできるように整備工場を併設しました。今年は農業機械の販売店として農業機械の販売も開始しました。
会社の事業拡大に追いつけるよう、私も勉強を続けて会社への貢献度を上げていきたいです。企業として拡大していけば、採用できる人数も増えますし、ウガンダの雇用や経済に貢献することになります。今は裏方にいますが、3WMが事業を拡大できるようバックサポートをしていきたいです。
日本で思っていたものと違う幸せの形があると学んだ
ウガンダに来る前は、貧しい人たちが不幸そうに暮らしているのかなという変なステレオタイプを持っていました。いざ、来てみるとウガンダ人は苦境にあっても焦る様子もみせず、にこにこしていました。思い出してみると、東京の満員電車に毎朝窮屈そうにしている人たちの方がよほどつらそうな顔をしています。ウガンダ人は満足にお金やモノがなくても、毎日あっけらかんと笑っています。モノがなくても幸せそうなウガンダ人を見ていると、モノがあることだけが幸せではなく、私が今まで日本で思っていたものと違う幸せの形があるということをウガンダで学びました。
幸せは人それぞれ感じ方が違うから、私の状況で幸せでないと感じる人も多くいるかもしれないです。まず、日本の生活に比べたら間違いなく不便です。今、こうやって家庭を築くことができ、かつ普通に生活ができていて、やりがいのある仕事を任せてもらえて、私はとても幸せです。私が働くことで40人弱の雇用を安定させるお手伝いをしていると考えると、やりがいを感じます。もっと会社が発展するためにお手伝いをしていけば、私が元々やりたかった雇用の創造や、人々の成長にも繋がるので、そういう方面からなにかしらウガンダの経済成長に貢献できればと思っています。ウガンダに日本のようになってほしいのではなく、日本の要素を取り入れることで良い化学反応が起き、それがウガンダ人の幸せにつながる感覚を大切にしたいです。
まずは良き日本人、良き妻、良き母としての役割を果たすこと
これからのことはその時の状況をみて夫と相談しながらですが、自分の子どもたちに日本のことも知ってもらいたいので、どこかのタイミングで数年、日本の教育を受けさせたいです。また、自分が生まれた街でオリンピックが開催されるのは一生に一度ぐらいだし、2020年の東京オリンピックの時には日本に帰国して地元で家族と一緒にオリンピックをみたいです。世界級の祭典を娘たちに見せてあげたいし、スポーツの躍動を一緒に感じたいです。
娘たちには将来、彼女たちなりの幸せのカタチをみつけてほしいです。そして、ウガンダと日本の架け橋になってもらえたら嬉しいです。そのためにも、まずは自分がウガンダに住む良き日本人として、良き妻として、良き母としての役割を果たすことが大切だと考えています。毎日小さいことを積み重ねながら努力を続け、感謝の気持ちを常に持ち続けていきたいです。自分が最期を迎える時に良い人生だったなと思えるよう人生を謳歌したいです。
【聞き手の一言】
私は吉田真理子さんを訪ね、聞き書きをさせていただきました。吉田さんのお話を聞いて、幸せとは何か、についてとても考えましたし、恵まれた環境に感謝しながら、自分なりの幸せを見つけていこうと感じました。この作品を通して、たくさんの人に幸せの形についてもう一度考えていただき、またウガンダや国際援助についても身近に感じていただけたらと思います。聞き書きをさせていただき、ありがとうございました。
田中 紗千乃