【カンボジア】
話し手 ── 橋本 博司さん
聞き手 ── 百々 栞
聞いた日 ── 2016年8月8日
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海外を好きになったのは親父の影響
橋本博司です。1978年9月26日生まれ。37歳です。東京の八王子で生まれました。親父とおふくろと妹の4人家族。親父とおふくろはJTBに勤めていた。俺が海外を好きになったのも親父の影響なんだけど。出張に行って、訳わからない土産とか買ってくるから、それがすごい楽しみで。家族で旅行に行くのも結構多かったけど、海外旅行には連れて行ってもらったことはなかった。
注目されたり、人前で発表したりするのが嫌いだった
幼稚園が、男の子は必ずサッカーをやるところで、そこからサッカーをずっとやるようになったかな。小学校のときはおとなしい子で、友だちは普通にいたけど、注目されたりとか、前で発表したりとかが嫌いだった。小学校のときは友だちと公園に秘密基地をつくって、そこでマンガを読んだりとかして、ずっと外で遊んでいた。
両親は厳しくも見守ってくれていた
中学では3年間サッカー部だった。部活にはそんなに力を入れてなかったから、中学で熱中してたことは友だちと遊ぶこと。でも親父が空手をしてたから、中2の後半くらいから空手を始めた。親父は空手をやってた分、すごい厳しい。風邪で倒れてたときに、「そんなの、運動すれば元気になるんだ」って外で空手の練習をさせられてた。親父は基本は怒らないけど、怒るとめちゃくちゃ怖い。おふくろは特に何も言わない。基本的に両親は、「好きなことは好きにやれ」って感じで放任主義。ずっと見守ってきてくれたんだなっていうのはわかる。
友達の影響でスッゲー勉強した
高校ではひたすらバイトしてた。3年間ファミレス。人前でしゃべるのが苦手だったんだけど、うるさい友だちが多くて、より積極的になってきた。高校も授業はあまりちゃんと受けてなくて、もともと親父を見て、ツアーコンダクターになりたかったから、専門学校に行こうと思ってた。ただ、友だちが塾に行き始めて、スゲー頑張ってたから、俺も塾に行こうと思って。それからスッゲー勉強して、法政大学の経済学部に行った。
大学生活、このままじゃ遊んで終わると思った
大学では、スキーサークルに入った。でも、1年生の前期はコンパしかしてなくて、海に行った夏合宿もあまりにもくだらなかったから、そのサークルは辞めた。「このままじゃ、やばい」「学生生活が、遊んで終わる」と思ったから、留学、行きたいなと思って。英語が全然できなかったから、大学に行きながらTOEFLスクールに通い始めて、ひたすら英語の勉強をしてたね。それから、沢木耕太郎さんの『深夜特急』と、テレビ番組『電波少年』と親父の影響もあって、いい加減1人で海外に行こうと思った。でも結局、一番最初は友だちと2人でギリシャとトルコに行った。大学1年の夏かな。
カメラマンの一ノ瀬泰造さんがカンボジアへ行くきっかけ
海外に行って、めちゃくちゃ面白いと思って、次にタイとカンボジアとマレーシアとシンガポールを回った。アジアに行った理由は安いからなんだけど。もうちょっと言うと、一ノ瀬泰造さんっていうカメラマンがいるのね。俺は泰造さんの生き方がすごく好きで。「泰造さんが命を懸けてでも見たかったアンコールワットって何だろう」って思ったのが、俺がカンボジアに行くきっかけなのね。
40歳までにカンボジアに学校をつくる
カンボジアに行ったら、子どもたちに囲まれて「勉強を教えてくれ」って言われて、これも何かの縁なのかなって思ってる。学校をつくろうと思ったのは子どもたちが学校に通ってなかったから。「学校がないんだったら学校をつくればいいや」って。帰りの飛行機で「40歳までにカンボジアに学校をつくる」ってノートに書いた。今カンボジアで活動する理由は、一番最初にそういう思いを持たせてくれたから。
ボランティアはダメ
カンボジアのことが何もわかんないから、カンボジアにボランティア活動をしに行った。3週間ひたすら木を植える活動をして、村での最終日に村のみんなと語り合ってたのね。そのとき俺が「また木がなくなったらどうしますか」って聞いたの。そしたら村の1人が「また世界からみんなが来て植えてくれればいいよ」って言ったのね。その瞬間に「ボランティアはダメだ」と思って。ボランティアに依存してるじゃん。そこで自分がボランティアをやるっていう選択肢は消えた。
それからも旅は続けてて、バックパックが好きで、いつもその国に行くチケットだけ買ってた。初めていく街、情報も何もないローカルな街で、バスを降りた瞬間、「さあどうするか」っていう感覚が、すごい好きなのね。もう、そこから誰を信じるのかも自分次第だし、言葉もわかんないしさ。
海外に行くようになって行動的になった
だんだんと行動的になったきっかけは、海外に行くようになったのが1つ。あとは彼女に振られたこと。彼女はスゲー頑張ってたのに、俺は何も頑張ってなかったのね。それから記念日に「なんで、あんたは人の頑張りを認めてくれないの」って振られちゃったの。それがすごいショックで、「留学しよう」とか、「勉強しよう」とかってなった。大学の交換留学の制度で留学しようと思ってて、試験には補欠で受かったんだけど、国の補助金がカットされちゃって行けなくなったの。だから結局行けずじまいで。
ゼミが「ビジネス、おもしれえ!」って思わせてくれた
大学3年で統計学のゼミに入ったのね。でも、先生が「これからはパソコンとビジネスの立ち上げの時代になる。それを学ばなくちゃいけない」って言いだして。で、ゼミでは、ビジネスモデルを考えて、それをプレゼンしてた。そのビジネスモデルを立案するために、実際に企業の人たちに話を聞きに行ったりとかしてて。そのゼミが「ビジネス、おもしれえ!」って思わせてくれた。
自分たちで稼ぎたくて学生団体を立ち上げた
ビジネスが面白いと思ったから、ビジネスの勉強ができるところを探して就活をして、5月には内定をもらった。6月に友だちと「暇だよね」って話してて、アルバイトしなきゃいけないけど3月には辞めちゃうわけじゃん。「なんかそれも嫌だね」ってなって、「じゃあ自分たちで稼ごう」って感じで学生団体を立ち上げた。ホームページを1件当たり30万円とかで安く作ってた。最初は運が良かった。「幼稚園だと園長先生にすぐ会えるし、意思決定者だからすぐ話が進む」という仮説を立てて、受注のための活動をした。たまたま行った幼稚園の園長が大原グループの会長さんだったのね。「お前らみたいな若者を待ってたんだ」って、ホームページ制作の発注をしてもらえて。それから、同じようなことをしてる他の大学の友だちとのネットワークができて、気づいたら行動的になってた。
表彰される側じゃなくて表彰する側になりたい
最初の就職で、ベンチャーリンクっていう会社に入った。会社自体はもう潰れちゃったけど、当時ものすごい勢いのある会社で、みんな経営者になりたいやつばっかりだったのよ。けど俺は入社して5カ月で辞めた。会社の社員総会があって、そこで社長がボーナスを渡したり、表彰したりするのよ。みんな、それを見て、「すごいな、ああなりたいな」って言ってるのね。でも、俺は「あそこに上がりたい」って思ったんだけど、「表彰する側に回りたい」と思ったの。経営者になりたいんだからさ、与えられて喜ぶのはバカみたいだと思って。
営業先のマスターの言葉がものすごいショックだった
仕事で飲食店の営業回りをしてて、マスターに将来の夢を語ったのね。そしたらマスターに「俺は店をつくりたいと思ったから、お金を集めてつくった。お前は言ってるだけじゃねーか。ただのサラリーマンだろ。一生かけてもできねーよ」って言われたのね。ものすごいショックでさ。結局ほんとにやってる人から見たら、何もやってないのと同じ。それで、人事の人に「辞める」って言ったら、その人も、「お前らみたいなのが出てくると思ってた」と。そのときに、「辞めるって選択をしたら、周りから「逃げだ」とかいろいろ言われる。でも、本当にやりたいことがあって、それをやるんだったら、一目散に逃げろ。一直線に逃げて、ふりかえんな。それだったら辞めても良し」って言われた。
昼はカフェ、夜はバーの経営を始めた
会社辞めたからすることがないじゃん。彼女が「カフェをつくりたい」って言ってたから、俺がカフェつくったら喜ぶと思って、「カフェをつくろう」って。でもカフェだけだったら心もとないから夜はバーにしようって思って。昼は物件を探して、夜はお酒の作り方とか勉強して。お金がないから、不動産屋を通さずに直接地主さん通して借りようと思って。そしたらちょうど駅前に築80年くらいの古民家が空いてて、物件も借りれた。知り合いの大工のおじいちゃんとかに来てもらって教えてもらって、床を張り替えたり全部自分たちでやった。国民生活金融公庫にお金を借りたかったけど、実務経験3年以上って条件なのね。向こうの事業計画の所定のフォーマットでは思いが伝えられないから、自分のフォーマットで資料を作って出したら、この金額と熱意だったら貸してくれるって。それで、彼女に見せたら、「私は店をつくりたいからお金を払って専門学校に行ったのに、なんであなたは会社辞めてすぐにつくってんの、信じられない」って言って振られちゃった。
運の良さだけで生きてる
店をオープンしたとき、ほんとにお金がなかったのね。最初の支払いができなかったら潰れるみたいな状態で。料理はほんとにまずくて、お客さんから「ほんとにまずいよね」って言われるくらい。営業して半年くらい経ったときに、最初の会社の同期が1人辞めたのね。そいつが本格的にイタリアンを勉強してたから、うちの店に来てもらって。すごい運が良くて、運の良さだけで生きてる。もう普通にパスタのおいしい店になって、「ブガルカフェ」って名前で経営してた。でも、カフェで好きな音楽かけて、好きなコーヒー淹れて、好きな本読んでたら、俺はカフェで働くのではなくて、お客さんでいることが好きなんだって気づいて、カフェ営業を辞めて、夜だけにした。
移動販売など、いろいろなことにチャレンジしてきた
オープンから1年経って、次に移動販売が面白そうだと。ちょうど小学校のときの友だちが移動販売をしてて、その友だちから車を買い取って、改造して。イタリアンの友だちに任せたら、営業開始3カ月で、「これ、売れないから辞める」って言い出して。こんな中途半端な状態で夜のバーの2店舗目を始めたから、1店舗目もぐちゃぐちゃになって。でもそれからなんとか店も安定して、借金も返し終わったから、一度友だちに店を全部譲った。
目的達成よりも至るプロセス、どんなスタイルでやるのかが大事
次に今のカミさんと「世界一周する」ってなって。でも、お金がなかったから、1年間2人で派遣社員で働いてお金を貯めて、移動販売の車を売ったりして、400万円の予算で、1年間で28カ国を回った。チケットはタイのバンコクまでの片道チケットだけ。世界一周するまでは、目的達成のためにはどんな手段を使ってもいいって考えだったのね。目的を達成するのが一番。だけど世界一周するときに、プロセスのほうが大事なんだと。要するに世界一周ってさ、飛行機で回っても、歩いて回っても、世界一周であることには変わりないじゃん。俺の場合は、タイへの片道チケットだけ買って、基本的には陸路で、ローカルの人に触れながら回りたかったのね。目的の達成よりも至るプロセスのほうが大事って考え方ができた。カミさんとも、「世界一周、できなくてもいい」「自分たちのスタイルを続けるほうがいいよね」って話になって。これが結構、俺の中で大きくて。
28か国を回った中には、カンボジアの他にもたくさん貧しい国はあったんだよね。でも、このカンボジアに学校をつくる活動をやろうって思わせてくれたのがカンボジアだから、カンボジアで必要ないって言われてもやろうって決めてたのね。
カンボジアで教育支援をするために民間企業で教育を学んだ
日本に帰ってきてから畑仕事を始めたんだけど、それじゃ食っていけなくて。そのときに、最初に入った会社で「逃げるなら一目散に逃げろ」って言ってくれた人、フミオさんって言うんだけど、フミオさんから連絡があって。「お前、前からカンボジアでなんかやりたいって言ってたけど、あの思いは本当なのか。お前がやりたいのは教育支援とかだろ。だったら本格的に教育の勉強しないか」って言われたのね。フミオさんが新しく入った会社の採用と教育研修の担当がいなくて。そのときも、カンボジアのことがやりたかったから、「2年で辞めます、ただ、2年で絶対に成果出します」っていう条件を会社ものんでくれて。それから2年経った時に、カンボジアのことがあるから、契約社員で、月15日勤務にしてもらった。
会社での採用の仕事が教育の根本を教えてくれた
この会社で学んだことはあり過ぎる。採用の仕事は面白かった。人の成長って何かとか、「何か自分の好きなことをやりきろう」「自分の人生を生きよう」と思ってる人とそうじゃない人との違いって何かとか、人への興味を抱かせてくれたのが一番大きいかな。だからスタディーツアーとかインターンも、そういうのがベースになってるし、教育の根本を教えてくれた。
利益がないと団体の存続はできない
NPOも株式会社もやれることって一緒なのね。だけど、株式会社でカンボジアに学校をつくるってなると、「何か裏があるんじゃないか」って思われてしまうことがあるのね。学校建設自体は、寄付金でしか回んないし、それがお金を生むものではないからNPOでやりたかった。俺は日本のNPOはダメだと思ってて。大きなところや儲かってるところがないのね。だからちゃんとした給料を払えてるとこもないし。俺はちゃんと給料を払えるNPOを作りたいのね。NPOってnon profit organizationなんだけど、non profitってありえないのね。だって利益がないと団体の存続はできないから。俺は名刺にはnot for profitって書いてるんだけど、利益目的でない団体だと。俺は利益目的ではないけど利益は必要だと思ってるから、うちは利益は出してるよ。NPOの利益は、自分たちの事業に再投資すればいいだけ。
寄付をしてもらうために37回企画書を提出した
最初は実績がないからお金を寄付してもらえなくて、営業をしてたら、「お前の夢に投資する人なんていないよ」って言われたのね。それから、当時、働いていた会社の社長に、企画書を持って行って、断られ、1週間後にまた持って行く…っていうのを37回繰り返したら、社長がいい加減折れたんだよね。それからは、他の経営者を紹介してもらって。多い人で学校の建設費を3回分出してくれたり、リピーターの人も多い。
スタツディーツアーを始めるきっかけも、たまたまの出会い
2校目の学校建設のときからスタディーツアーを始めた。当時働いていた会社の面接に来た子が、フィリピンのスタツアに行って、次は自分でやりたくて、「旅行会社の社長も知ってます」って言うから、「じゃあやろう」って。たまたまこういうきっかけから始めた。スタディーツアーは学校建設が中心だけど、インターンは3日でビジネスを立ち上げるというもので、3年前くらいに試しで始めた。自分のことをふりかえると、学生団体を立ち上げて、営業した経験がすごい大きかったのね。自分たちで考えたものを営業してお金をもらうっていう経験がすごく大きくて、それがカンボジアだったらできるんじゃないかと。日本だと、3日でビジネスを考えて営業するのは厳しいけど、カンボジアで1回やってみようと思って。3年前の夏に屋台を借りてビジネスをやったら、結構面白かった。
家庭の収入が1日1ドルだと学校に通えない、1日2ドルだと通える
スタツアで運動会をやったりしてるじゃん。あれが建設した学校のモニタリングを兼ねてるのね。最低でも年に1回はイベントをやって、校長先生に生徒数とか、何か問題があるかとか、何が必要かとか聞いてて、あれって、すごいうちの中では大事で。
公立の学校は無料で通えるのに、登録している生徒数と通っている生徒数が違ったのね。なんで通ってないのかわからないからさ、校長と村長さんに協力してもらって家庭訪問をしたのよ。そしたら、通っていないのが貧困の家庭の子どもだったのね。収入を聞いたら、1日1ドル以下で生活してる家庭の子どもが、毎日食べられる葉っぱを探したりしてて通えないと。通えないのが貧困が原因なら、貧困の問題を解決すればいい話であって。でも、1日2ドルの生活になったら学校に通えてたのね。
結局、根っこは貧困
月30ドルは通えない、月60ドルは通える。プラス30ドルの埋め合わせができることをしたいと思って、「マイクロ養豚バンク」っていうモデルを考えた。貧困の家庭に豚小屋と井戸を作って、子豚と餌を買ってきて、その家庭と一緒に豚を育てる。大きくなった豚を売ると、利益が家庭の収入になる。最初の豚小屋も寄付ではなくて、貸付にしてるのね。でも、うちは利子を取らないから運営費を稼げないので「必ずうちから餌を買ってください」っていうモデルにしてるのね。基本的には、売った利益から子豚を買って育ててもらうと、ずっと回るんだよね。
医療事業もやってるんだけど、経緯は同じ。結局、根っこは貧困で、貧困から脱出するためには働くしかないのね。そして、教育と健康な体がないと働けない。健康ってすごい大事。でも村に衛生教育とか、保健体育の授業はないし、ちゃんとした医療が提供されてないから、基本的に病気にならない生活習慣を作らなきゃダメだと。そのために、定期的に村に巡回診療とか健康診断をしたいなって。でもそれをやる運営費がないから、カンボジアに観光で来た日本人相手の病院をつくって、その保険料をベースに巡回診療していこうと。
最後まで全力でやってみないと、ダメかどうかはわからない
病院の立ち上げに3千万円集めてたのね。そしたらある1社が「3千万円、全部出す」って言ってくれたから、2カ月くらい、それで動いてたんだけど、カンボジアにいたから契約書にサインできずにいたんだよね。いい加減、資金が尽きてきたから、請求書を出したら、入金予定日の3日前に電話がかかってきて、「橋本さん、やっぱり病院の話、なしで」って言われたときが一番ピンチだった。そこで1カ月半後には全ての資金が終わるってわかって、本気で団体を辞めようと思ったのよ。お世話になってる社長さんに謝ったら、みんな許してくれると思ったのね。でもどの社長さんも、みんな、この質問をすると思ったの。「お前、最後まで全力でやったの?」って。そう言われたときに、「ハイ」とは言えない、と。だったら全力でやってダメだったときに謝ろうと思って、今できることからやっていこうと思って活動していたら、学校の寄付金が決まったりして、ギリギリやっていけたんだよね。
うちが目指しているのは小学校の卒業率の向上
これから活動していく国として、バングラデシュかフィリピンかネパールを考えてる。この3カ国だったらパートナーがいたり、関係ができてるからすぐにでも活動できるんだよね。あとは教育の中身かな。うちが目指してるのって、小学校の卒業率の向上なのね。子どもを卒業させることを最終的な目標にしている。カンボジアの小学校卒業率って全体の50%くらいなのね。じゃあ卒業させるのに何が一番大事か考えた時に、今、俺が考えているのは校長先生。校長先生が「必ず生徒たちを卒業させる」って思ってるか、思ってないかで変わってきちゃうからさ。だから、校長先生向けのリーダーシップや責任感の教育研修プログラムを作りたいの。
幸せって幸せだと思った瞬間
カンボジアの子どもたちって、貧しくてもずっと笑ってる。幸せって幸せだと思った瞬間のことなんだよね。お金のある/なし、人がいる/いないに関係なく、心の持ちようだけだと思ってる。カンボジア人って幸せそうじゃん、楽しそうじゃん。でも、日本って、電車とか乗ったら暗いじゃん。日本はなんでもあるし、お金を払えばサービスを受けられるけど、それも誰かが提供してくれるものであって、それじゃ本質的に満足って得られないと思うのね。何もないからこそクリエイティブになるし、感謝をするし、助け合うし、そういう人間として当たり前のことを日本は奪い取ってしまっていて、それを不便なものとしてるよね。携帯があれば誰かに道を聞かなくていいわけだし、助け合わなくていいわけだし、それが便利だと思っちゃってる。カンボジアはモノがないっていうのがいいんだろうね。「沼あります、広場あります、さあ遊ぼう」って感じじゃん。だから子どもって、考えて勝手に遊べるんだよね。大人もすごい自由で、将来にそんなに不安を抱いていないよね。悪く言えば、今が楽しければいいっていう考え。俺の個人的な考えね。地理的・気候的なところがあって、やっぱ南国のほうがのんびりしてて、「今が楽しければいいや」みたいな。南の島とかそういう人が多いし。
人生のターニングポイントは、会社を辞めて店をつくったこと
人生のターニングポイントは、会社を辞めて店をつくったことかな。小・中・高・大学に行って、大学でもいろいろやったけど、なんだかんだ与えられたレール、大学に行って就職してっていうレールが見えちゃったのよ。結局は大きな川の流れに流されてて。そこから脱出したのがその経験で、がむしゃらに店をつくったっていうのが自分の中ですごい大きくて。あそこから初めて自分の人生と向き合えたというか、自分の人生、自分でつくっていけばいいんだっていう。今は、スタツアとかインターンに参加したみんなが日本に帰って、多少変わるのを見るのが楽しい。
やり残したことはあるけど、後悔することはない
今まで失敗したことの1つは、デング出血熱で死にかけたこと。もし、もう1回なったらやばいけど、それがカンボジアで活動することを辞める理由にはならない。「ほんとに死ぬな」って思ったときにまあまあ自分の人生に納得して、「死んでもいいかな」って思えたのね。でも、死ななかったから、もう好きなことしかやらないって決めた。今、やり残したことはいっぱいあるけど、後悔することはないかな。それで、危険だからって辞めて、違う仕事をして死んだほうがすごい後悔する。人生の一番のリスクは死ぬときに後悔することだと思ってるから。どうせだったら、もっと面白くしたいよね、人生。
【聞き手の一言】
私はNPO法人HEROの代表としてカンボジアで活動されている橋本博司さんにお話を伺いました。カンボジアで学校建設やマイクロ養豚バンク、医療事業を行っている橋本さんにお話を伺い、強く感じたことは、人生は一度きりだということ。橋本さんのパワフルな、真っ直ぐな生き方から、私自身も悔いのない人生を送りたいと強く思いました。この作品は、何かやり切れない日々を過ごす人や一歩踏み出したい人など、たくさんの人の背中を押してくれる作品となっています。
百々 栞