週末の夜、家族で訪れた母の家から京都に戻る途上で、新快速の車窓から眺めた光景が瞼から離れません。
現在、私は頻繁に鉄道を利用する生活をしていません。また、この間、車中でも読み書きに専念することや、息子の様子に気をとられるケースが多かったからかもしれません。このため、お恥ずかしながら「こんなことになっていること」に今まで気がついていませんでした。
私が目にした光景とは、列車が轟音をあげ猛スピードで通過していく中で、
- 踏切が青色の光で照らされている
というものでした。
芦屋、尼崎あたりで「このこと」に気がつき、以降、京都までの「全ての踏切」が、この「異様な光景」に変わっていることを確認しました。
青色LED光が「犯罪」「自殺」などに対して「抑止効果」を有することについては、以前にマスコミで取り上げられていたのを覚えています。しかし、ここまで徹底して「対策」がとられていることから「ことの重大さ」を改めて認識したところです。
帰宅してweb検索してみると、東京大学による研究のニュースリリースなどもヒットしました。
心理学的、生理学的な「メカニズム」の解明には至っていないものの、統計的には「効果」が確認されているようです。
悲しいことですが今や「人身事故」による鉄道ダイヤの乱れは、私たちにとって日常茶飯事になってしまいました。列車への飛び込みによる社会的影響を考える時、鉄道会社が被る被害の甚大さは容易に想像できます。何より、自死者の遺族の方々の精神的ダメージ、さらに強いられる経済的負担には、想像を絶するものがあります。
また、商品販促からwebサイトの視認性の向上に至るまで、生活のあらゆる場面に、こうした「学術的成果」が応用され、「有効活用」されています。
鉄道会社による「全ての踏切」への「青色灯設置」は、こうした文脈で「評価されるべきもの」なのかもしれません。
しかし、釈然としないところも残ります。
「自殺」に関する哲学的な是非は、ここでは問わないことにしましょう。それは、現在、生じている「自殺」にまつわる問題は、「自由な選択」というよりも、社会的状況を背景として当人にとっての「強いられた選択(選択肢なき選択)」から発生しているように思われるからです。
素朴な疑問として、
- 青色灯設置は自殺そのものを抑止しているのか?
というものが挙げられます。これは、青色灯設置により、自殺者は列車への飛び込みを回避するだけで、「他の手段」に流れてしまうだけではないか、と言い換えても良いと思います。
また、
- あたかも蛾を追い遣るようなやり方で自殺志願者を遠ざけるのは、人の尊厳を傷つけていないか?
といった疑問も湧いてきます。私たちの生活の隅々に、科学的な説明が浸透してきました。しかし、自らの生死に関わる意思決定の場面にさえ、他人から物理的因果法則が「応用」されてしまうことには、忸怩たる思いが残ります。
「紛争の解決」において、解決手段としての「武力行使」を準備する遥か以前に、何よりも「紛争」自体を生じさせない種々の絶え間ない努力が必要なことは言うまでもありません。同様に「社会的に強いられた選択(自殺)」を考えていく上で、社会の仕組み自体を改善していくこと(生き方に関して他の選択肢のある社会を作り上げること)がより重要性を持ちます。
「青色灯設置」は、あくまで「弥縫策」に過ぎないということを、肝に銘じるべきだと思います。
社会の有り様を反映し、私たちの「日常的な風景」がこれほどまでに変貌していることに無頓着であってはならない、と強く感じました。〔ratik・木村 健〕