私たちは「時間」「空間」の枠組みのなかに生きており、この枠組みを自明なものとして様々な営みを続けている。しかし、この「枠組み」は本当に疑えないものなのだろうか。
たとえば、私たちは、
- 三次元直行座標上の点(x1, y1, z1)に個物Aが在り、かつ、
- 三次元直行座標上の点(x1, y1, z1)に個物Aがない。…(1)
あるいは、
- 三次元直行座標上の点(x1, y1, z1)に個物Aが在り、かつ、
- 三次元直行座標上の点(x2, y2, z2)にも個物Aが在る。…(2)
といった事態を端的に「矛盾」と捉える。しかし、(1)や(2)のような事態は「実は」生じているのであり、こうした事態を把握するがために、「先後」や「経過」なる概念が、私たちの認識の「枠組み」に予め準備されている「だけ」なのだと、なぜ言えないのだろうか。
私たちの認識では、(1)や(2)の事態は、
- 時刻t1に三次元直行座標上の点(x1, y1, z1)に個物Aが在り、かつ、
- 時刻t2に三次元直行座標上の点(x1, y1, z1)に個物Aがない。…(1)’
- 時刻t1に三次元直行座標上の点(x1, y1, z1)に個物Aが在り、かつ、
- 時刻t2に三次元直行座標上の点(x2, y2, z2)に個物Aが在る。…(2)’
と言い表されるだろう。そして、ここに「時間」や「運動」といったものが持ち込まれる。しかし、私たちの認識とは異なる「枠組み」を有し、(1)や(2)を、(1)’や(2)’に書き改めることを必要とせずに、また、「矛盾」として却下することもなく、一挙にそのまま把握する知性があり得ると、なぜ考えられないのだろうか。「時間」「空間」といった枠組みのない知性を。
私の意識は、途切れている。過去とも、未来とも。これは、突然、眠りから覚めた時の話をしているのではない。私に与えられているのは、「さきほど階段を降りていた」といった記憶に過ぎないものと、「まもなく階上に行き昼食をとるだろう」といった不確かな予期を伴い、「この椅子に座り、パソコンを目の前にしている(ようだ?)」という「現在の意識だけ」なのだ。いつも「現在の意識だけ」しかない。いや、より正確には、「いつも「現在の意識だけ」しかなかったという記憶と、これからも「現在の意識だけ」しかないだろうという予期のみに彩られた、この「現在の意識だけ」」しかない。過去(始まり)とも、未来(終わり)とも断絶し、時間の経過なんぞとは無縁に、何の理由も原因もなく「ただ、今、在る」。
『Gamera3』で倉田真也が、『宇宙戦艦ヤマト2199』でハイドム・ギムレーが、『進撃の巨人』でマルロ・フロイデンベルクが、「これが死か」と呟く。しかし、彼らがそれぞれの今際の際で「これ」という言葉で指し示しているのは一人称単数の死ではない。むしろ、この言葉が指しているのは、彼らの人生の中での体験でしかない。いや、もっと正確にいうならば、「人生」などという「時間の経過」を前提とした話法が無効なほどに、先述の「ただ、今、在る」の外部は、端的に私には与えられない、というべきか。
「私は死なない」と語る荒川修作の真意は分からない。でも、この言説にはなにがしかの真実が含まれるようにも感じられる。
今年もまたratikでは、人々の営みのなかに発見される真実に、また、人々を取り囲む自然の仕組みを明らかにする取り組みに注目していきたいと思います。それとともに、私たちの「枠組み」をとらえ、その先をみつめるまなざしをも見出していきたいとも思います。どうぞよろしくお願いします。
〔ratik・木村 健〕