視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚など「身体」的な感覚器官の助けを借りず、「心」は「周囲の変化」を「直接的に」察知することができる…。巷では、たとえば、こうした「能力」のことを「第六感」と呼んでいるのではないでしょうか。何だか怪しげな「第六感」などを持ち出さずに、人間のこうした「察知能力」が説明できてしまうことを示す研究がPLoS ONEに掲載されています。
Piers D. L. Howe, Margaret E. Webb. Detecting Unidentified Changes. PLoS ONE, 2014; 9 (1): e84490 DOI: 10.1371/journal.pone.0084490
この記事の元ネタにした紹介記事は、こちら
研究論文へのアクセスは、こちら
実験には、同じ人物を撮影した2枚のカラー写真が準備されました。2つの写真には、例えば「ヘアースタイルが少し違う」など、人物の外観に違いがつけてある場合があります。実験参加者は、片方の写真を1.5秒観察した後、1秒の休息を挟んで、もう片方の写真を1.5秒観察することが課せられます。その上で、
- 2枚の写真に違いはあったか
- 違いがある場合には、それは何か(リストから選択)
といった質問が為されるという流れです。
実験の結果、観察者は、2枚の写真に違いがある場合には、概ねそのことを報告できていました。ところが、どこにその違いがあるのかを尋ねられた時、多くの場合、観察者は「正確には」答えられないというのです。例えば「何だか赤が緑になったみたいだ」とは認識できていたとしても、それが「帽子の色」の違いとして提示されていたことを同定できない、といった具合にです。
当然の結果のようにも思えます。研究者グループは、ここで観察者に生じている「変化の察知」を説明するのに「第六感」を引き合いに出す必要はなく、「視覚」的な「知覚」「記憶」「知識」の枠内で論じることが充分可能であると結論づけています。
関連して…。
先だって「京都現代哲学コロキアム」(第8回例会)で西村正秀さんの「視覚的記憶と非概念主義」というご発表を聴講してきました。
「視覚的知識の内容は概念的か/非概念的か」といった議論は、哲学の領域で為されてきました(まずは「概念」とは何か、といったところから厳密な定義をしていかねばならないのですが…)。昨今、この論争に決着をつけるべく「心理学」とりわけ「ワーキング・メモリ」「アイコニック・メモリ」の実験研究の知見を援用していく流れがあるそうです。
「第六感」を標的にした先述の研究は、西村さんのご研究に関連していくのか否か…。領域を横断し、生産的な議論のために「概念主義/非概念主義」の対立自体を昇華させていこうとされている西村さんにも注目していきたいと思っています。〔ratik・木村 健〕