人間の行為に関する「科学的」な説明を受けることにより、「自由意志」に関する信念が揺らぎ、相手が「非難」に値するか否かの判断が変わってしまう、という研究成果がPsychological Science誌に掲載されています。
Shariff, A. F., Greene, J. D., Karremans, J. C., Luguri, J. B., Clark, C. J., Schooler, J. W., Baumeister, R. F., & Vohs, K. D. (2014). Free Will and Punishment: A Mechanistic View of Human Nature Reduces Retribution. Psychological Science, DOI: 10.1177/0956797614534693
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「科学的」な説明は、概して人間の「自由意志」とは相性が悪くなっています。たとえ、その説明が「未来」の不確定性を唱えるものであったとしても、単に「決まっていない」ということと、「私が選び得る(決めるのは私である)」ということとの間には、まだ大きな溝が横たわっているように感じられます。
科学万能の今日においても、私たちは、他者を非難し、他者の行為に怒りをおぼえます。これは、私たちの「生」において、「自由意志」に関する信念が深く根をおろしていることを示しています。実際、私たちは「自由意志」を前提にしなければ成り立たない「社会的な制度」の編み目に乗っかって、日々の暮らしを営んでいるのです。
たとえば、9時7分に次のバズが来ることを、果たして私は、人工衛星の落下地点や落下時刻を予測するかの如く、知るでしょうか。
まだまだ「科学的説明」のほうが不十全なのでしょうか? それとも、実は、私たちの「自由意志」に関する信念のほうが誤っているのでしょうか?
この研究は、機械論的な「科学的説明」によって、私たちの「自由意志」に関する信念が揺らぎ、懲罰に対する意識がマイルドなものになってしまうことを示す幾つかの実験で構成されています。
例えば、或る実験で、参加した学部学生たちのうち、2分された一方のグループは、
- 自由意志を否定し、人間の行為を機械論的に説明する脳科学の読み物
を読みます。もう一方のグループの学生たちには、
- 自由意思というテーマには関係ないニュートラルな読み物
が与えられます。
その後、2つのグループには、フィクションの法廷シナリオ(男が人を殴り殺してしまうケース)が示され、量刑判断が課される設定になっていました。
結果、「機械論的」説明を読んだ学生では、比較的短い期間の量刑(5年間)が支持されたのに対し、統制群の学生たちからは、比較的長い期間の量刑(10年間)が支持されていました。
また、懲罰意識に対する同様の差異は、「機械論的な脳科学」の講義を一定期間「受講した/受講しなかった」学生間においても見られる、とのことです。
こうした私たちの信念が、それほど強固な地盤の上に建っているものでもないことを示す、興味深い成果であると思います。「自由意志」に関する信念が、私たちの「生」に深く根をおろしている、というのは誤認なのかもしれません。
ただ、他方で、「量刑5年」というように、「機械論的」説明を受けた学生も、依然として「懲罰そのもの」すなわち「自由意志そのもの」を完全に否定している訳ではありません。
果たして私は「自由意志」と「科学」との間の葛藤を調停するような理説に、生きている間に出会うことはあるのでしょうか? あるいは自分自身で、そうした理説を編み出すことはできるでしょうか? 引き続き、こうしたテーマを追いかけていきたいと思います。〔ratik・木村 健〕