「生まれてこなければ良かった」という言説は、あらゆる場合に妥当する…。人々が出産を選択しない結果、最終的に人類が絶滅してしまうことは、より良きことである…。
この記事を書いている「子どもの日」(2013年5月5日)にはふさわしくないテーマかもしれませんが…。
残念ながら聴講できなかったのですが、先月(2013年4月)開催された応用哲学会の年次大会の予稿集を読んで、David Benatarの「反出生主義」の議論を知りました。
Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence
Benatarは、
- 苦痛(pain)が在ることは悪しきこと(bad)である。
- 快楽(pleasure)が在ることは良きこと(good)である。
という異論の起こりそうにない前提からスタートし、快/苦の間にある非対称性に注目して論証を進めていきます。すなわち、
- もし当人が実在しないならば、その人に生じる快楽の不在は、略奪にはあたらない。
- それゆえ、そうした場合の快楽の不在は、悪しきことではない。
- 他方で、苦痛の不在は、たとえ「そのことから帰結する良きこと」を享受する者が存在しないとしても、良きことである。
といった具合に…。そして、ここから帰結するのは、
- 実在し始めるということは、常に、深刻な害(serious harm)である。
- それ故に、生殖は常に過ち(wrong)である。
- 人々が生殖を選択しない結果として、人類が絶滅してしまうことは、より良きことである。
といったことになります。
Benatarは、心理学で解明されつつある認知バイアスの1つ「ポジティヴ・バイアス」に関する知見を援用しつつ、私たちが上記のように考えないのは、人生の質(quality of life)に対する過大評価にほかならないとまで言い切っています。
Benatarが地元・南アフリカのラジオ番組の「自著を語る」のようなコーナーに出演している模様をインターネットで聞くことができます。コーナー終盤では、リスナーからの電話に、一見「気弱な青年」風の声色でBenatarが受け答えしているところもあります。何より、こうした深刻なテーマが「お茶の間の話題」になっている点が興味深いと思いました。あるいは、こうした深刻なテーマであるからこそ話題になったのでしょうか。
Benatarの論証については、しっかりと彼の著作のなかの言葉を読んで吟味したいところです。また、テーマがテーマですし、書籍の発行が2006年ですから、英語圏・分析哲学のコミュニティでは、かなりの議論が蓄積されているのではないかと想像します。いずれ、そうした論争の森に踏み込めることを楽しみにしつつ…。
また、Benatarのテーマは、永井 均氏の展開する〈私〉、〈今〉の独在性の議論から眺めた場合、また別の見え方をすることでしょう。何故ならば、永井氏の主張からすれば「〈私〉が〈今〉ここに実在していることは、親による生殖からは帰結しない」ということになりそうですから。
差し当たりBenatarの「人生の質に対する過大評価」という言葉には、幾分かシンクロする感覚が私にはありました。〔ratik・木村 健〕
書 名:Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence
著 者:David Benatar
出版社:Oxford University Press
発行年:2006年