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研究・実践の現場から

  • フォーカシングをベースにしたコラージュワークを体験しました

    2018年4月30日

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    2013年12月26日
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    2013年12月26日

ナラティヴ・プラクティスを通して見た東日本大震災後の気仙沼(3/3)

2013年5月16日 / ratik / 研究・実践の現場から, 研究・実践を語る

緊急派遣事業でのスクール・カウンセラー勤務を終えて

 

 インタビュー記事の最終編では、今回のカウンセラー派遣を通して国重さんが得たことを未来につなげていく視点が語られます。自然災害時のPTSDの扱い方、支援者自身が職務を全うするための工夫、緊急時の専門職のネットワーク形成に関する示唆などは、今後、私たち人類が繰り返し経験するであろう危機的状況を乗り越えていくために、役立っていくことでしょう。

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国重 浩一

宮城県緊急派遣カウンセラー
日本臨床心理士
ニュージーランド・カウンセラー協会員
特定非営利活動法人ratik理事

〔インタビュアー:ratik・木村 健〕

ナラティヴ・プラクティスを通して見た東日本大震災後の気仙沼(1/3)へ
ナラティヴ・プラクティスを通して見た東日本大震災後の気仙沼(2/3)へ

インタビュー
 PTSDをどう考えるか
 日常生活の変更によるストレスの継続
 支援者が健全であるために
 被災地における「共感」とは
 今回の派遣を将来に活かすために
インタビューを受けて

 

インタビュー記事(2/3)からのつづき

〔問〕 国重さんが参画されたカウンセラー派遣事業は、当初の想定として、被災地の生徒にPTSDが生じることへの対応といった側面があったと推測されます。また、行政が震災後の初期段階に、そうした危機感をもった対応を行ったことは評価されるべきことだと感じます。国重さんの派遣期間をとおした体験を踏まえ、PTSDをどのように扱っていくべきだとお考えですか。

震災のあとで緊急支援にはいる私たちは、心的外傷後ストレス障害(PTSD:Post Traumatic Stress Disorder)という疾患の存在を無視できないと思います。この疾患概念の困難さは、その時に症状が出ていないとしても、数年後、忘れた頃に出てくるものであると、私たちに訴えかけることにあると思います。つまり、いつまで経っても、警戒を解けないということにつながります。私が勤務を始めるときも、どの程度、PTSDという症状に対応しなければならないのか懸念していました。それは、PTSDの有効な治療方法が確立していないなかで、自分に対応できるのか、まったく自信がなかったからです。

人びとの身体症状などを聞いていくと、震災後、さまざまな症状を見せている人たちがいました。しかし、被災地で生活に差し障りがでるようなレベルの症状が疾患と見なす必要があるほど継続している状況、すなわちPTSDと見なすべき状況に、私は出会うことがなかったのです。また、私が対応した人たちの身体症状はすべて、時間と共に軽減していきました。

一方で、私が以前に活動していた被災とは無縁の地域で関わった高校生が、NHKの緊急地震速報のアラームに極端に反応するようになったと、連絡してくれました。幸い、それ程悪化することなく、落ち着きを取り戻してきているようです。ただし、こちらも、PTSDを発症してしまったと理解すべきではないと思っています。

どのようなことがトラウマ体験になりうるのかという研究も存在します。研究によると、普通の生活を営んでいる人びとも、一生のうちにトラウマ体験を経験する確率が相当高いのだという結論が待ち構えています。

しばらく現地に滞在してみて、このロジックのどこかがおかしいと思うようになったのです。この考え方は、大きな出来事、つまり心的外傷と呼ばれるトラウマを経験すると、PTSDを発症する可能性がある状況におかれるというものです。これは、外的要因の大きさで判断されます。この時、その要因の大きさは誰が判断するというのでしょうか。研究によれば、今までPTSDの診断を受けた人びとが、どのような要因によってPTSDになったかという調査から得られたもののようです。つまり、そのような要因には、人びとをPTSDにさせてしまう恐れがあるというのです。

このロジックにおいては、考慮が抜けている点がいくつかあるように思います。まず、トラウマ体験の影響の大きさが、その人それぞれが、どのように受け取ったかに依存する可能性が考慮されていません。たとえ、周りが、どれだけ大変なことであったのか容易に想像できるようなことでも、本人が、そこまで甚大な出来事として感じなかったのであれば、PTSDにつながるものとして作用しない可能性があります。

2つ目に指摘できることは、これまでの考え方では、受けた時のストレスの大きさだけを対象としていますが、その後、当人がどのような状況におかれてしまったのかについても考慮がなされていないということです。

たとえば、戦争から帰ってきた帰還兵を世間がどのような目で受け止めるのかによって、兵士が戦場でしてきたことの意味がまったく異なってしまうことは、容易に想像がつきます。「戦争の中で体験したこと」の影響の大きさを測ろうとした時に、実は絶対値を見出すことなどできず、そのときの社会の意味づけからの影響を受けたものを理解できるだけなのです。よって、起こったこと自体の大きさだけではなく、その後、当人がどのような状況におかれていたのかによっても、トラウマ体験というものの様相が異なります。

3つ目に指摘できることは、自然災害によるものを私たちがどのように受け取るのかについては、人為的なものを受け取るときと異なる可能性があるということです。私たちは、長い歴史の中で、自然の猛威に曝され続けてきました。地震、台風、寒波、日照り、豪雨、火山噴火などが長い歴史の中であったのです。その土地によって、身近に感じられる災害もあれば、あまり考えにくい災害もあるでしょう。

たとえば、東北沿岸部の人たちは、津波被害のあった歴史を共有しています。語り継がれた伝承もあります。そのような背景を共有する人びとが、今回の自然災害のことをどのように受け取るのかについては、そのことをまったく共有していない人びとにとって把握できないことでしょう。

最後に、PTSDというものが、実際に被災した人びとに対応する時に、有用な概念ではないと思いました。少し説明します。PTSDというものを念頭におく限り、被災者をいつまでもPTSD予備軍として見続けることになります。さらに、PTSDは数年後、時間間隔を置いて発症する可能性があるとされていますので、その見方を何年にもわたって、こちらが維持しなければならないということになります。

本当にこのような見方で、被災者を見続けてよいものなのでしょうか。それよりも、人びとが持っている回復する力(リジリエンス)を見出し、人びとがお互いに関心を持ち、関わっていく文化をはぐくんでいくことのほうが、よっぽど健全なのです。つまり、私たちがPTSDという視点を持ち続けることによって、不健全さをいつまでも植え付けていくことになるのではないかという懸念を持つのです。

実際、人びとをPTSD予備軍として見ようとも、特別何かができるわけはありません。ただ、十分に休息を取ること、栄養を取ること、何か気になることがあれば相談してほしいということを伝えること以上に何もできないでしょう。これは、何も今回の震災だからといって特別なことではありません。

杉山登志郎医師の報告を読む限り、PTSDが現実のものであると痛感します。ところが、自然災害によるものにおいては、異なるのではないかということを、しっかりと研究してほしいと願っています。

ここまで、私は「PTSD」という言葉を一般的に人びとが使う「トラウマ」という幅の広い意味で使っていません。社会生活を送っていくのが困難になるほどの状態までになる症状について述べています。

PTSDを発症しないからといって、今回起こったことが大変でもなく、辛くもないということは意味しません。この点を誤解しないでほしいです。逆に、私は、被災した人びとを、PTSD予備軍として見ていくことの方が、相手に失礼な態度ではないかと思うのです。

 

〔問〕 国重さんは、PTSDよりも、むしろ日常生活が変更を余儀なくされることによってもたらされるストレスが日々継続することが被災者にのしかかってくることの深刻さを指摘されていました。

私たちは、3月11日に何が起きたのかによって、人びとの辛さを理解してしまいがちです。しかし、あれは自然災害であったし、以前から警告されていたことなのです。私は、被災地の人びとが、このこと自体を受け入れる心構えがある程度あったのではないかと思っています。

ところが、その後どのように日常生活に戻っていくのかについては別の問題だと思うのです。ここからは、人為的な問題として私たちは理解できるようになります。端的に言えば、その困難さ、辛さ、厳しさを作り出している対象を見出すことができるようになるということです。それは国であったり、地方行政であったりするでしょう。

また、最初は被災した人びとは、皆同じ状況に置かれたと思えました。ところが、復興する過程は、人それぞれなのです。素早く次の仕事を見つけることができた人、新しい土地に移り住む人、家を再建できた人が徐々に出てきます。この過程における重要な点は、みんなが一斉に、同時期に動けないということなのです。

そうすると、何が起こるのかというと、その地区のコミュニティの中で、差異が痛感されていくことになります。この差異は、人びとの関係性にも影響を及ぼしかねません。つまり最初は同じ震災を背負った運命共同体が形成されているのかもしれませんが、その後、その共同体内における違和感をお互いに感じてしまう可能性があるということなのです。

日々の暮らしの大変さ、将来の見通しの立たないことが継続するということは、人びとにとって消耗戦に臨んでいるようなものです。体力、気力を徐々に削り取られていくのではないでしょうか。

今まだ、気仙沼の町をどのように再建するのかについての青写真がそろっていません。つまり、見通しが立っていないところがたくさんあります。また、今進もうとしている方向性についても、不安がたくさんあります。防潮堤の高さ、漁業のあり方、集団移転先での生活など以外にも、私がつかみきれなかったこともたくさんあるのでしょう。

消耗戦に曝されると、私たちは気力をそれほど維持できるようなものではありません。このような状況は、人びとに心身症状をもたらし、時には人の命さえ奪うのです。

このことに対して何をしたらよいのでしょうか。私は、行政への支援が必要なのだと思っています。単に人手が必要な状況もありますし、これからのことについて、しっかりとしたビジョンを提供できる人たちも必要でしょう。行政が機能し、いろいろなことを決定していくことは、ある程度人びとの安心感につながるのではないかと思います。

私のような心理援助職はどうでしょうか。実は、支援の手は、人びとに均等に配分されるものではありません。偏りがどうしても生じてしまいます。現地で活動していて、一般市民に対する対人援助職がおこなう支援があまり充実していないように感じました。あったとしてもNPO団体が独自におこなっているようなものでした。そのような団体は、専門的な支援のノウハウがないということだけでなく、その事業に当たる職員へのケアという視点も抜けがちになります。ですので、自殺予防という側面もありますので、この領域には、かけ声だけではない、実質的な活動を伴う支援が必要だと考えています。

 

〔問〕 1度目の派遣が約3ヶ月、2度目の派遣が約1年間。被災地の状況を考えると長丁場の「激務」であったことが想像されます。支援にまわる側が、しっかりと立っているために工夫をされた点などありますか。

あります。まず現地に入る前に、自分の支援体制を整えました。私は定期的にスーパービジョンを受けています。これは、ニュージーランド・カウンセラー協会の規定によるものです。すべての臨床家は、スーパービジョンを受けなければならないのです。ベテランになったからといって免除されるシステムではないのは、大変重要な点であると思っています。そのため、現地でも、スカイプを利用したオンライン回線で、そのスーパーバイザーとの面談を定期的におこないました。これは、自分の活動を振り返るためには不可欠なことであったと思います。

ただ今回は、状況が状況だっただけに、もっと自分の支援体制を充実させて臨むべきことだと思いましたので、何人かの専門家にメールで、緊急時には支援をお願いしたい旨を連絡させてもらいました。皆、快諾してくれました。その人たちの職種をあげますと、精神腫瘍学の専門医師、児童小児科医、精神科医、そして、臨床心理学を教える大学教員たちです。筆者は、今でも鹿児島臨床心理士会に所属しているのですが、その担当者から協力は惜しまないという言葉もいただいたことは、うれしいことでした。何か困った時には連絡できるということを、大変心強く思いました。

ふだんの学校現場でも思うのですが、生徒への対応について、私のようなスクール・カウンセラーと調整して方向性を確認できる教員は、安心して、対応を任せられます。それは、私に相談できたから安心だということではなく、その先生に「相談できる力」があるということだと思うのです。だいたい、学校現場でやみくもに「大丈夫です」と言われるほど、不安になることはないのです。相談という行為と、すべての指示を仰ぐという行為には、大きな差があることも付け加えておきたいです。

ですので、私もしっかりと自分の不安や葛藤、対処できないことを、スーパービジョンの場で出すべきだと考えました。そのことが、私が対応する人びとに対する支援の質を上げるものだと思ったのです。

また、現地で他のカウンセラーと意見や考え、感想、そして方向性などを確認できたのは大きかったです。これは、ピア・スーパービジョンであったといえると思います。一緒に緊急派遣カウンセラーとして入った人たちは、頼りになる人たちでした。

週に1回夕食を食べながら、話し合いました。そこで、任務をしっかりと終えることが大切であること、そのためには、休日はしっかりと休みを取ろうということを確認し合いました。

また、そのカウンセラーたちが、しっかりしていると感じたのは、週に1回の集まりの時以外は、それぞれが自身のペースで仕事をし、お互いに干渉しなかったということです。「みんな一緒に何かしましょう」というようなことを、言い出す人がいなかったのは、とてもやりやすかったのを覚えています。「せっかくなので、みんな一緒にどこかに行きませんか」などという状況になると、せっかくの休日を台無しにされてしまうのです。必要なことは、仲良しクラブをつくることではなく、自分の任務をこなすために、どうすれば自分の力を最大限発揮できるのかについて、検討していくことです。心理学を専攻している人間が、ただがむしゃらにがんばるという手段をとるということは、心理学の知を無駄にしていることになると思うのです。

 

〔問〕 今回の派遣カウンセリングの仕事では、震災で生じたことについての「現実感の曖昧さ」が、却ってカウンセラーとしての冷静な判断に役立ったともお聞きしました。特に感情面での滞在中の国重さんのご様子はどのようなものだったのでしょうか。

勤務当初は、相当緊張していました。最初の3ヶ月、私は派遣期間をまっとうできるのだろうかという心配もしました。その懸念についても、自分で抱えるのではなく、他のカウンセラーにも伝えていました。そのような緊張がすこしほぐれてきたのは、勤務の中頃を過ぎたあたりだと思うのです。どこまですればよいのかの見通しが立ち始めたということが、その要因として思い浮かびます。

しかし何よりも、先生と生徒の様子に救われたのだと私は思っています。学校の授業も再開し、生徒たちも日常を送れるようになっていたので、学校の先生ともども、震災直後にあった混乱の中で勤務するということではなかったのです。

つまり、その学校現場に入り、時間を取って、雑談しながら、自分をその場に慣れさせる時間がとれたのだと思います。そのように慣れてくることによって、徐々にインタビューや、ピア・カウンセリングをおこなう余裕が生まれてきたのだと思います。

そして、ある程度私が被災の話を聞くことができたという点について、「現実感」という視点で考察してみたいと思います。この「現実感」からの考察から、相手をどのように理解していくべきかについて、そして、自分自身のあり方をどのように考えていくべきかについて、何らかの示唆が得られると考えています。

さて、目の前に起きたことをそれが現実のものであると、どのようにして、私たちは認識するのでしょうか。ここで、認識という問題にいくつかのレベルがあると考えてみたいと思います。たとえば、「知っている」という状態と「実感が伴う」という状態は、別次元である可能性があります。

今回の東日本大震災で、地震や津波の被害を受けたことを、被災者は「知っています」。この事実を受け入れていないということではないのだと思います。ところが、それを「現実」のものであるとする「現実感」が少し曖昧な状態が持続しているような話を何回か聞きました。これは、「私にはまだ訳が分からないんです」などという言葉に代表されるのではないでしょうか。つまり、起こってしまったこと、失ったものに対して、今ひとつ現実感が持てない気持ちがあるようです。これは、「実感が伴っていない」と表現できるでしょう。

それは、実はカウンセラーである私にも生じていました。被災地の様子、つまり地震と津波による被害を目のあたりにしました。気仙沼市、南三陸町、石巻市、大船渡市、陸前高田市など、おそらくみなさんも耳にしたことがある場所に行ってみました。その被害をどのように表現すればよいのか分からないぐらいのものです。津波被害の大きさに、自然が持つ力の大きさに驚愕するのみです。

しかし、その「現実感」が少し曖昧な状態にあるのです。被災の規模、亡くなった人の数、地震や津波の経験などの話を直接聞きました。その話によって、私自身がどの程度影響を受けてしまうのだろうかと、関心もあり、不安もありました。ところが、「人の死」「人びとの悲鳴」という実感が伴ってこなかったのです。そのため、冷静さがあったのです。

最初、私はこのような姿勢では、相手のことをうまくくみ取れていないのではないかと思ったりもしました。

どのような姿勢で、クライアントと接するかについては、難しい問題です。このような被災状況の折に、「大変でしたね」、「つらかったでしょうね」というねぎらいの言葉や、クライアントの震災の影響の話(家の流失、肉親や友人の喪失)について、感受性を最大限に発揮して聞いていくことも可能でしょう。

しかし、たとえば、そのような話に対して涙を流したり、嗚咽を漏らしたりすることは、現時点では、相手の状態に共感している状態ではない可能性もあると感じています。つまり、相手も「現実感の曖昧さ」ゆえに、起こったことを比較的淡々と話をしている心境である可能性があるので、こちらも、そのように聞いてあげる必要があるのではないかということです。ですから、先ほど話したように、自分に生じている「現実感の曖昧さ」を、共有することによって、共感する姿勢を維持することの方が、相手の状態に沿った姿勢であるのではないでしょうか。

カウンセラーの養成では、傾聴と共感が不可欠のこととして教えられます。しかし、不用意に共感すべきではないのではないかというのが、今回の派遣で考えたところでした。

 

〔問〕 震災には社会文化的な部分も関連していますが、大きな原因は「自然現象」にあります。その意味で、私たち人類は、繰り返し今回の震災のような局面に遭遇していくことになるでしょう。派遣業務を終え、国重さんとして、もし「次回」があれば整えてみたい支援体制などをお考えであれば、是非、教えてください。

被災を受け、身体症状などが目立ってきたため、カウンセリングにつながってきた生徒たちがいます。このような子どもたちと話をしてみて、やはりカウンセリングの重要性を再認識しました。それは、たった1回の面談しか受けなかった生徒たちがいたのですが、養護教諭などからその後の様子を聞いていくと、ある程度、状態が改善しているとみてよい生徒たちがいたからです。このことについては、たった1度でも自分のつらさを表出し、受け止められ、将来に対する見通しをある程度持てることが、本人たちの健全性向上に貢献した可能性を考えたいところです。「こうした自己評価は、カウンセラーの欲目だけのものではないのか?」という自問自答をしてきましたが、このような場合もあるとみてよいと感じています。

そのため、この緊急支援において、継続的な支援が必要になる人もいるということを念頭においておくことは不可欠ですが、1回でも、しっかりと話を聞いてあげることが重要になることもあるのだと、覚えておくことは、カウンセラーにとって重要なことになると思います。

そのために、どうやってそこまでたどり着くのかが検討されなければなりません。「心の専門家」の立て看板を背負っているだけでは、相手は近寄ってくれないからです。そのため、いろいろな形式のアプローチを作っていく必要があるでしょう。

そうしたアプローチを整えていくうえで、まず1週間ごとにカウンセラーが交代するというやり方には賛成できません。短期間でも、何回か訪問することによって、関係性が生まれてきますので、できれば1回集中型の滞在ではなく、短期間でも継続できる滞在を検討してほしいところです。スクール・カウンセラーの場合、常勤の勤務形態を他に持っていると難しいでしょうが、スケジュールを調整して、2週間に1度ぐらい現地を訪問して関わりを継続するという形態は可能なのかもしれません。

1週間ごとの勤務が避けられない場合、現地で引き継ぎができませんので、オーバーラップする期間がほしいところです。たとえば、週5日間の勤務ではなく、9日間にして、前2日間を前任者との、後ろ2日間を後任者との引き継ぎの時間にあてることはできないだろうか、という可能性です。私は、現地で引き継ぎをする重要性を感じています。そうすれば、現地の担当者が説明するところをかなり削減できます。

また、派遣されたカウンセラー同士の情報交換の場がほしいと思います。日本の場合、スーパービジョンという言葉で、人によって意味することが違うのですが、しっかりと派遣された人を支えるシステムも望まれるところです。

そのためには、支援している人を支援することとは、どのようなことなのかについての検討も欠かせないでしょう。要は、スーパーバイザーの養成が必要であるということです。この必要性は強く感じていますので、私は友人と、『心理援助職のためのスーパービジョン―効果的なスーパービジョンの受け方から、良きスーパーバイザーになるまで』という本を訳しています。これをたたき台にして、是非検討してほしいところです。

そして何より、「次回」という場合、是非活用してみたい人たちがいます。私は、現地でその場を乗り切った人たちほど、貴重な資源はないのではないかと思っています。もし次ということがあれば、私が出会った管理職、教員、養護教諭、医師、地元の人たちなどに連絡を取って、同業種の人びととのつながりを作りたいと考えています。

たとえば、学校現場で養護教諭が、必要なこと、慌てないでよいことを含む見通しを、経験者から伝えてもらえれば大変貴重な情報になると思うのです。そのため、私は、これからも現地の人たちとの関係性を維持しておきたいと考えています。

現地の人びとの中には、次の機会には、自分たちが支援をしなければいけないという気持ちになっている人たちもいました。そのような人びとにとって、さきほど説明したような援助ができるのであれば、快く引き受けてくれるのではないかと見ています。

書 名:心理援助職のためのスーパービジョン:効果的なスーパービジョンの受け方から、良きスーパーバイザーになるまで
著 者:ロビン ショエット、ピーター ホーキンズ
訳 者:国重 浩一、バーナード 紫、奥村 朱矢
出版社:北大路書房
発行年:2012年

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今回は、インタビューに応じていただき、ありがとうございました。冒頭に「百聞は一見に如かず」という言葉がありましたが、ご本人からうかがう体験談から、国重さんの足掛け2年間のご様子が、かなり詳しく想像できるようになったと思います。まさに、テレビカメラが映し出したものの後ろにあるものを垣間みることができた気がします。このことは、被災地の今に心を寄り添わせる上でも役に立ちます。ご経験が国重さんの今後の実践活動に活きていくことはもちろんのこと、広く社会に良き影響を与えていくことを願ってやみません。

 

インタビューを受けて

 質問をされることによって、自分にはいろいろと言いたいことがあるのだと、気づきました。状況が状況でしたので、現地では本当にいろいろなことを考えてきました。私が恵まれていたのは、私が考えたようなことを現地の人びとに伝えることができ、その感想をもらえる機会があったということです。
 最初は、このインタビューも8000字程度のものであると聞いて引き受けましたが、8000字では自分の言いたいことは収まらなかったようです。そして、インタビューに答えながら、新たな視点や考えも見つかりましたので、もっとこれから考察することができそうです。
 せっかく、ウェブサイトという今日ほとんどの人がアクセスできる場所に掲載していますので、何かコメントや意見、感想などありましたら、是非、連絡してください。もし許可をいただけるのであれば、この記事に添付して、他の読者に読めるようにしたいと思います。
私の体験、感想、考えを読んでいただき本当にありがとうございました。

(全編おわり)

 

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