『「死の不安」の心理学』(2012年・ナカニシヤ出版)の著者・松田茶茶さん(関西保育福祉専門学校 専任講師)に、青年期におけるデス・エデュケーションの重要性について語っていただきました。これは、博士論文の出版を終え、死生学の観点から実践に結びつく研究を志す松田さんの当面のテーマとなっているものです。
私の息子の幼稚園のクラスでは、現在、親や先生など大人から叱られた際に、反省もせずに「それじゃぁ、死にまぁ〜す」と呟くのが流行っているそうです。大人としては「『死ぬ』なんて気安く言うな!」と小言をいいたくなる場面ではあるのですが、「死」を厳密に「考え」、きちんと「教えていく」ことは、存外難しいことでもあります。ただ、そうした死に関する緻密な思考に着手するうえで、基盤となるような理解が確保されていることは大切なことなのかもしれません。
今後の松田さんのご研究に注目したいと思います。〔ratik・木村 健〕
松田 茶茶
関西保育福祉専門学校 保育科 専任講師
まず初めに、“死生学”や“デス・エデュケーション”の意義・目的についてはここでは述べないこととする。これについて述べるならば、それだけで紙幅が尽きてしまうため割愛し、この領域の重鎮たる先生方の御本を参照されたい。
さて、死生に関連しておこなわれる教育“デス・エデュケーション”は、その対象を幼少期からとする意義について異論を唱える人は少ないであろう。地域文化、家庭文化、家族構成等々、個人の属性により死をどのように捉えるか、あるいは捉えることを求められるかは異なるが、どの文化に生活しようとも、その文化内で共有される“死への理解”、そして地域を越えて人類に共有される普遍的な“死への理解”は獲得されなければならない。死への理解の基本要素としての不動性、不可逆性、不可避性(普遍性)の3点に加え、死に対する情動的反応や儀式的行動も学習を要される。これら全てを周囲の人間と全く同じように身につけよう(つけさせよう)とするならば、大人になってからではあまりに非効率である。ときには手遅れとなる事態を招くリスクも背負い込むであろう。そこで、適切な死生感覚をもった大人に成長してもらうため、子どものうちからデス・エデュケーションを…と考えるのは至極妥当なことである。
学校現場や保育現場の教員に“死に関する教育(しつけ)は必要だと思うか”といったアンケート調査をおこなえば、圧倒的多数が“思う”と回答する。また保護者に対して同様のアンケートをおこなった場合にも極めて似た反応となることから、立場を問わず、大人が子どもに対して“死を教える必要性”を感じていることは明らかである。実際に保育や授業のカリキュラムの中に、死を学ばせるための工夫を挑戦的に組み込んでいる例も少なくない。ただしかし、それらの挑戦は何らかの学術的な基礎知見に基づいたプログラムであることは稀で、ほとんどが“これならきっと意味があるだろう”という、思い込みや思いつきに依拠した内容となっている。
もちろん、現場の教員が実践している挑戦の全てを否定する意図はない。研究知見などに基づかなくとも、“伝統”や“勘”といったものには大きな力があり、それらによって人間の営みは連綿と続いてきたことを考えれば大切にすべきものである。しかしながら、伝統や勘に頼るという方法は、教育・保育に携わる大人側に伝統や勘が保証されている、ということを前提としなければならない。これは困難なことではないだろうか。例えば大学や専門学校を卒業して間もない若年教員であれば、まだ20歳代前半である。保護者ともなれば、早ければ10歳代という場合もある。
そこで子ども達に死を教えたい、すなわちデス・エデュケーションを実施したいと思えば、子ども達を指導する大人に対してまずデス・エデュケーションを実施する必要性が生じてくる。ただし、現場の教員も保護者も暇ではない。研修会を開いても高い参加率は期待できず、参加したとしても、たった一回のレクチャーの内容が365日の日常生活にどの程度反映されるかといえば、期待値はさらに低い。
そこで筆者が考えるのは“青年期”へのデス・エデュケーションである。青年期とは、まさにこれから生産段階に突入するための準備をしている、子どもから大人への移行期である。数年後に親となる可能性が高く、中でも大学や専門学校で教育・保育を専攻する学生は、じきに現場の教員となるわけである。しかも、社会に出てしまった後の大人と違い、教育を受ける立場として存在しているため、デス・エデュケーション実施のための環境も比較的整えやすい。
以下に、ここまでの筆者の考察プロセスを簡略化した。
- 死生感覚が正常な“大人”を目指すには、“幼児・児童”への教育が必要
↓ - “幼児・児童”への教育を考える前に、幼児・児童を教育する“大人”への教育が不可欠
↓ - “大人”への教育よりも、その手前の“青年期”への教育のほうが効率的
思春期から青年期にかけては、そもそも死生に関する心理的課題を抱える時期である。この時期にデス・エデュケーションをおこなうということは、若者1人ひとりが文化の中で自分なりの死生観を形成・確立していく心理的作業に並行して、自分がこれから育んでいく子ども達に自分自身の死生観が反映するのだ、ということを意識させることのできる、メリットの大きい方略であると信じている。
現在、筆者の目下の研究計画は“死生教育観”をキーワードとしている。具体的な方法論はまだ漠然としたイメージにとどまっているが、青年期における、幼児・児童へのデス・エデュケーションに関する教育的意識を探索的に調査し、介入を試みたいと思っている。この青写真がフルカラーになるか否か、「死ぬってなぁに?」と問い始めた3歳の息子を眺めながら研究計画を立てていると、毎日が楽しい。
■“死生学”や“デス・エデュケーション”の意義・目的については、次の2冊が参考になります。
書 名:死を学ぶ:最期の日々を輝いて
著 者:柏木 哲夫
出版社:有斐閣
発行年:1995年
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書 名:死を教える (「叢書」死への準備教育)
著 者:アルフォンス デーケン
出版社:メヂカルフレンド社
発行年:1986年
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■また次は松田さん著の既刊書です。
書 名:「死の不安」の心理学:青年期の特徴と課題
著 者:松田 茶茶
出版社:ナカニシヤ出版
発行年:2012年