ミソジニー(misogyny)とは、ごく大雑把には、男性および男性らしさを中心におくことによって、女性および女性らしさを侮辱、嫌悪する過程をいいます。もはや旧聞に属することになりますが、5月の日本哲学会の第72回大会にて「哲学とミソジニー」と題するワークショップが開催されました。
日本哲学会では、1999年の「男女共同参画社会基本法」の制定・施行を受け、2005年から1年間「男女共同参画推進に関するワーキンググループ」が活動しました。この活動の中心には、2005年8月から9月にかけて全会員を対象に実施され翌2006年3月に結果報告がなされた「男女共同参画推進に関するアンケート」があります。今回のワークショップは、先行する活動を踏まえ2012年5月に発足した「男女共同参画・若手研究者支援ワーキンググループ」の主催によるものです。
残念ながら遠方のため当日聴講できなかったのですが、発表梗概によると次の方々による提題の後、議論が展開した模様です(敬称略)。
- フィロソフィアの方法論とイソノミア(平等性)の原理―日本における哲学の展開と男女共同参画(Gender Equality)の理念:和泉ちえ
- 哲学という芸術のかたち—シモーヌ・ヴェイユのゆくえ:今村純子
- 学術における男女共同参画を進めるために:戒能民江
- 哲学とミソジニーの構造:小島優子
紀元前5世紀後半アテナイに誕生した哲学(フィロソフィア)の方法論の根源的基盤には、「論理的推論法を可能にする理性」「哲学的問答法を可能にする基本的反論の権利」を男女の別なく万人に内在し行使し得るものとみなす「イソノミア(平等性)の原理」があった。その継承者・プラトンと、対照をなすアリストテレスの姿を描きながら、現代の「日本哲学会および関連諸哲学会を取り巻く本邦アカデミズムの状況」を「儒教的色彩漂う男性中心クラブの特徴を如実に呈するもの」と断じる和泉さん。
「研究者であることが同時に哲学者であること」が否応なく問われる哲学。「シモーヌ・ヴェイユであったらどう考えるであろうか?」という想像のもと、「哲学者であること」と「研究者、生活者であること」との乖離の問題を捉え、「言葉を届け相手の何かを変革するときにこそ誕生する哲学」の危機を唱える今村さん。
ジェンダー法学の立場から、広く科学技術・学術分野での男女共同参画を進めるための方策を考える戒能さん。
ミソジニーの発生の構造の中には「女性および女性らしさを劣位におくことによって、男性および男性らしさを優位におこうとする思惑」「女性の生物学的な身体性」がある。「哲学すること」と「女性らしくあること」がしばしば相容れなくなる事態に対し、「あたかも衣服のように身体性を脱ぎ捨てる(ミソジニーの構造から外部に出る)」「男性の立場からの盲点を女性が衝く(ミソジニーの構造に内部から亀裂をもたらす)」という戦略を提言する小島さん。
今回のワークショップに対して抱くシンプルな疑問、それは「何故、女性ばかりが登壇しているのか?」というものです。ミソジニーにおいて、嫌悪する主体は男性であるのに、嫌悪される客体である女性ばかりが何故、こうした語りを続けさせられるのでしょうか。
この疑問に対する答えの一端は先述のアンケートの自由回答欄(Q.4)に見いだせるかもしれません。この中には「問題の実在を把握していない。もし問題が存在するならば、それを認識している女性会員が声を上げるべきだ」という趣旨の男性会員からの意見が散見されるからです。今回のワークショップが、「問題」を明るみに出す装置として働いたのだとしたら、それは望ましいことでしょう。
ただ同じくアンケート(Q.2.1〜2.4)で明らかになったジェンダーバイアスによる「実害」の認識の男女間の大きな隔たりは、一度や二度の対話の機会では埋めきれるレベルではないとも見受けられます。
学会内には2005年のワーキンググループの発足自体に対しても、海外情勢・政府主導の流れに安易に乗ることへの批判、あるいは、「外圧」から議論が始まったことへの後悔(「哲学としては、外圧に先んじて取り組んでおくべきだった…」)など、「今」この問題に取り組むことへの学会員の輻輳する思いも読み取れました(cf. アンケートの自由回答欄)。
しかし、物事をより広くより深く問う哲学の営み、それを担う学術コミュニティである日本哲学会が、この件に関してどのような方向へと向かっていくかは、他の学会に対しても影響力をもっていくことでしょう。自らも「意識せぬまま既に大勢に加担してしまっている者」の自覚をもち、今後の展開を見守っていきたいと考えています。〔ratik・木村 健〕