緊急派遣事業でのスクール・カウンセラー勤務を終えて
震災直後から2年間にわたり被災地で活動を続けてきた国重浩一さんへのインタビュー記事をお届けします。被災地に入った国重さんが目にしたものには、それまでメディアを通して得ていた情報ではカバーしきれぬものが多々含まれていたといいます。
東日本大震災の発生から2ヶ月後の2011年5月、ようやく再開された被災地の学校に、スクール・カウンセラーが緊急派遣されました。国重さんは、全国から招集された心理援助職の1人として宮城県気仙沼市の高校に入りました。
全3編のインタビューの最初の記事では、ナラティヴ・セラピーの理論と経験を携えて現地に向かった国重さんが、模索と熟考のなかで周囲との関係性を取り結んでいく様子を描いていきます。
国重 浩一
宮城県緊急派遣カウンセラー
日本臨床心理士
ニュージーランド・カウンセラー協会員
特定非営利活動法人ratik理事
〔インタビュアー:ratik・木村 健〕
ナラティヴ・プラクティスを通して見た東日本大震災後の気仙沼(2/3)へ
ナラティヴ・プラクティスを通して見た東日本大震災後の気仙沼(3/3)へ
インタビューの前に
インタビュー
テレビカメラに映らないもの
不思議なくらい「普通の状態」に近い生徒たち
ナラティヴ・セラピーのバックボーン
聞こえてこない生の声
関係の双方向性
心に突き刺さる言葉/ありきたりの言葉
インタビューの前に
2011年3月11日の巨大地震と津波が広範囲な地域に被害をもたらしたため、被災地の高等学校の再開が5月のゴールデンウィーク明けにずれ込みました。震災後、2ヶ月間学校を再開できなかったことになります。その間、福島原子力発電所の大事故もあり、対応策を検討する機関に勤務する方々は多種多様な事柄に追われていたと想像します。そのような中にあって、担当者が子どもたちへのケアが必要なのだと理解し、それに対応しなければならないということを忘れずにいてくれたことに本当に感謝しています。学校が再開するやいなや、カウンセラーが派遣されることになったのです。
宮城県の高等学校に対する派遣形態が、他県および、宮城県の小・中学校に対するものと異なっていたことは、説明しておく必要があります。宮城県の高等学校に対して、緊急派遣のカウンセラーが配置されるという打診があったときに、現場から強い要望があったと聞いています。当初打診された内容は、緊急派遣カウンセラーが1学期間配置されるものの、1週間ごとに担当するカウンセラーが代わるという形態でした。学校に入るカウンセラーは、入れ替わりの際には同じ県から派遣されることになるので、引き継ぎなどがスムーズにできるように配慮されてはいました。しかし、現場からの要望は、少なくとも1学期間連続で現地に滞在して、臨床活動にあたってくれるカウンセラーを派遣して欲しいというものでした。
この時点で、現場のニーズをしっかりと伝えることができたのは、見事なことだったと思っています。混乱の中でも、どのように子どもたちに対応すべきかしっかりと考えることができていたわけですから。この要望を受けて、宮城県の高校教育課の担当者が政府と調整し、派遣を求める旨を各都道府県の教育委員会に打診したのです。この時期に、通常業務に加えて、このような調整をするのは、本当に大変なことであったと理解しています。中間に位置する機関、つまり、支援される側と支援する側との間で調整をし、実際の支援者を現場に送る担当者は、獅子奮迅の働きをしたのだと思っています。このような努力があったからこそ、私を含め11名の緊急派遣カウンセラーが宮城県の高校に入ることができたのです。
さて、私は、気仙沼の2つの高校を担当させてもらいました。私の場合、震災があった2011年の5月中旬から7月末までと、翌2012年の5月中旬から2013年3月中旬まで、足かけ2年間滞在しました。
気仙沼は、宿泊場所も相当な被害を受けていましたので、泊まるところが確保できませんでした。そのため、となりの町(岩手県一関市千厩)のビジネス旅館を長期にわたって県が借り上げてくれて、そこを拠点に動くことになりました。最初の派遣の時に、宿舎には、私を含めて4名のカウンセラーが滞在しており、最初にいろいろと情報交換しながら臨床活動にあたれたことは、大きな助けになりました。また2度目の派遣時にも、この千厩の旅館に滞在して、活動をしました。
私の臨床活動の基盤にはナラティヴ・セラピーがあります。ここで言う「ナラティヴ・セラピー」とは「外在化」とか、「語り直し」というような技法的な側面を指しているのではありません。ナラティヴは、社会に存在する「当たり前」とされる見方、考え方、発想を根底から問い直していくものです。以下の質問にも、あえてこのナラティヴの姿勢を意識して、お答えしていこうと思っています。
〔問〕 震災2ヶ月後から今春まで、2度にわたる長期の派遣滞在、本当にお疲れさまでした。まずは、最初に気仙沼に入られた際のまちの様子、赴任校や生徒たちの状況などを、当時の印象を交えながら教えていただけるでしょうか。
ありがとうございます。任期は終わったのですが、現地の生活は今でも続いています。まだ仮設校舎で授業を続けている高校もありますし、仮設住宅やアパート(みなし仮設)で生活を続けている人びともたくさんいます。何よりも、これから気仙沼の町をどのように復興していくのかについての青写真もまだそろっているとは言い難いところです。青写真とは、気仙沼の新しい町並みの予想図です。まだこれからどうしたらよいのか、見通しが立っていない人がたくさんいるのです。そのため自分の任務が終わったので晴れ晴れとしてその場を離れた、という気分にはなれませんでした。
さて、被災後2ヶ月して気仙沼に入った時の様子ですね。
未曾有の事態が起こったところに行ったため、日常からみたら異質な風景がそこにはありました。とりわけ外から入った私には、自分の目のあたりにしたその時の光景がとても異質なものに感じられました。ところが、人びとの様子は、私が想像したものとは異なっていたのです。
現地に行く前に、地震と津波が襲った映像を見たり、被災した人びとのインタビューを聞いたりする機会がありました。あの当時のことですから、どのチャンネルを回しても震災関係の番組だけでしたので、いろいろな情報を得ることができました。そのため事前に、いろいろなことを思い描いていたと思います。ところが、結論から言いますと、現地で見たものは、自分が予測したものとはまったく違いました。デジタル放送がフルハイビジョンになって、それを大画面で見たとしても、メディアからの情報だけでは足りなかったのです。「百聞は一見に如かず」という諺がありますが、映像情報が溢れる時代には別の諺が必要になるのではないでしょうか。いくらメディアからの情報を総合しても、実際に現地で自分の目で見ることには到底及ばなかった、ということです。
そこで、メディアの情報に何が抜けているのだろうかと考えました。そして、報道という特質上、報道に値する光景や、人の物語だけしか流せないのが、ひとつの理由であると思いました。たとえば、津波で被害にあった町並みの映像があったとしましょう。テレビカメラは手前にあるものを映し出すのですが、その後ろには、津波で流されていない町並みが広がっているかもしれないのです。そして、その場所では、人びとの生活に被害はなかったとまでは言えないにしても、日々の暮らしが続いているのです。そのような全体像は、現地に行って初めて感じることができるのではないかと思います。つまり、メディアからの大量の映像が情報としてあったにもかかわらず、実際に見ることから得られる情報量は、その多様さという点において、圧倒的なのではないかと考えたりしました。
また、その風景に何を見いだすかについては、その人が置かれている文脈によっても異なるのです。被災2ヶ月後に現地を訪れた私にとって、津波によってめちゃくちゃにされた家などの残骸が残されていました。しかし、1年もすると瓦礫がだいたい片付けられてしまいましたので、その時期に現地を訪れた人は、「何もない」という表現を使って、現地の様子を語っていました。津波が引き起こした惨状を見た私としては、1年後の様子をあらわすのに「とりあえず片付いた」という表現を使いたいのです。この表現を現地の人びとに提示して反応を見ましたが、現地の人びとの感覚に近いものであったようでした。
ところが、風景のなかには、現地の人びとが、そこに住んでいたからこそ見いだすものがあるのだ、ということに気づかされることがありました。それは、津波に破壊される前の町並みなのです。あるべきところにあるものがないという感覚。それは、道しるべとして利用していた建物だったりしたのでしょう。またはなじみの店だったのかもしれません。このような記憶の中にある風景をオーバーラップさせて、今ある光景を眺めるということなのです。
逆に、見えないものが見えるようになったという感覚が生じることもあります。たとえば、「ここから海は見えなかったのに、家々がなくなってしまって、見えるようになったんです」、「ここから海までこんなに近かったんですね」という話を聞いたことがあります。
そのような感覚が生じることによって、津波がもたらした被害を自分の感覚として感じることができるのではないかと思ったのです。
〔問〕 なるほど。それならば、赴任された高校の様子も「自分が予測したもの」と「現地で見たもの」とでは大きく異なっていたということでしょうか。
私が担当した高校では、体育館が避難所になっていたり、グランドに自衛隊が駐屯していたり、学校に通うことができない生徒が武道場に寝泊まりしていたりと、普通ではない状況はいくらでもあったのです。家を流された生徒は制服もないため、私服で登校していました。先生たちの中にも被災した人は多くいました。それでも、学校生活で生徒たちの様子は、「普通」と呼べるものでした。不思議なぐらい「普通に近い状態」だったのです。この「普通」という言葉で何を意味しているのかというと、生徒たちの表情は日常と変わらないものでしたし、生徒同士でも談笑したり、ふざけたりしている姿があったということなのです。もし私が目隠しをされてどこに連れて行かれるのか知らされず、休み時間に学校の廊下で目隠しを取られたら、先ほど述べました制服のこと以外気づけないのではないかと思ったぐらいです。生徒の様子について、いろいろな教員にも尋ねてみましたが、私と同じような印象を持っていました。
「現地に入る前に、いったい私はどのようなことを思い描いてきたのだろうか」と自問自答しました。そして、よくよく考えてみると、あれだけのことが起きたのだから、「大変に違いない」「苦しいに違いない」というようなことを漠然と思っていただけなのかもしれないと気づいたのです。もし現地に入る前に、どのような光景が学校にあるのかと問われたら、何も具体的なことを思い描くことができなかったのではないかと気づきました。
それでも、「なぜ普通に学校生活を送ることができるのだろうか」という疑問についても考えを巡らせる必要がありました。たとえば、「本当は苦しいのに、みんなの前では元気にしているのだ」という生徒のけなげさを読み取る必要があるのかと、考えたりしたこともありました。
現地に入って実際を見ない限り、信じられないという気持ちになるかもしれません。もしかしたら、現地に入ってその光景を見ても信じられず、生徒たちが出せない部分を一生懸命探したくなるのかもしれません。
いずれにしても、生徒たちの様子をどのように理解したらよいのだろうかということが、私が現地で人びとと関わる上での大きな主題になっていったのです。
〔問〕 さきほど「普通ではない状況」というお話がありました。震災が生徒たちに大きなダメージを与えた出来事として「生徒自身の死(友だちの死)」「生徒の家族の死(自分の家族の死)」があると思います。
気仙沼市全体での死者は1.5千人弱、市の人口規模が7.5万人弱ですから人口比でいえば約2%の方が亡くなったことになります。この率は、確かに阪神淡路大震災時の被災中心地のものより1オーダー高く、深刻に受け止めねばなりません。しかし、それでもなお、この「約2%」という数値は、気仙沼の人びとにとって、どの程度「ごく身近な死」を感じさせるものだったのだろうかと、考えていました。そのことと、子どもたちが不思議なぐらい「普通に近い状態」でいたことを結びつけて考えることはできないものでしょうか。いずれにしても、このことは掘り下げて考えてみたいところなので、後ほど、じっくりうかがっていきたいと思います。
ところで、国重さんのご専門は「ナラティヴ・セラピー」の理論的視点に基づく援助活動ですね。「ナラティヴ」に関する詳細な説明は別に譲るとして…。被災地の人びとと関わる際にバックボーンとなっていった考え方などがあれば教えてください。
私は、ナラティヴ・セラピーに取り組んできました。そのため、自分の臨床がナラティヴと切り離せないものとなっています。
ところが、今回の震災において、たとえナラティヴ・セラピーを知っているからといって、現場に入る前に自分に何ができるのかと問われたら、まったく自信がないと答えたことでしょう。この自信のなさについて、少し説明が必要かもしれません。カウンセラーとして、人とつながること、人との関係性をつくっていくという側面では、ある程度蓄積してきたものがあると思っています。つまり、相手と話を続けていくということは、自分はある程度できるのではないかという感覚を持っています。これは、ナラティヴ・セラピーからの影響が大きいのだと思うのです。ところが、今回の震災という状況の特殊性に対して、自分に何ができるのかについては、見通しが立ちませんでした。
しかし、震災だからといって自分の理論的立場を変えるようなことはできませんので、ナラティヴ・セラピーの領域の中から、活用できるヒントを探していきました。行く前には、どの概念や技法が有効であるかの見通しを持つことはできなかったのですが、2年間滞在して、ナラティヴの可能性が少し見えてきたと思っています。そのことについて、少し話してみたいと思います。
まず、ナラティヴ・セラピーの根底に、起こったことがどのようなことなのかについて、人は意味を見いだすものであるという視点があります。ここでいう「意味」とは、それがどういうことだったのかについての説明ですし、そのことに対する解釈です。そのため、起こったことがいろいろと解釈される可能性があるはずなのです。ところが、ある時代、ある文化、ある地域、ある言語では、解釈に偏りが生じることもあります。多様性が失われ、特定の解釈が大きくなってしまうようなことがあります。
同じ地震を感じ、同じ津波を見たとしても、人によって感じ方も異なるはずだし、考えたことも違うはずなのです。ところが、このように思わなければいけない、気丈に振る舞わなければいけない、がんばらなければいけないというような風潮が強くなってしまうと、人びとの気持ちが抑圧され、辛くなってしまうこともあるのではないかと考えたりしました。
とにかく、その人の話を、それがどんなに辛いことでも、職業人として聞き続けることが自分に課せられた職務であると、意気込んで現地に入ったのを覚えています。
書 名:ナラティヴ・アプローチの理論から実践まで:希望を掘りあてる考古学
編著者:ジェラルド モンク、ジョン ウィンズレイド、キャシー クロケット、ディヴィッド エプストン
訳 者:国重 浩一、バーナード 紫
出版社:北大路書房
発行年:2008年
「書影」「書名」を「クリック」すると
Amazonの当該書籍ページが開き、ご購入の検討ができます。
「クリック」からご購入いただいた場合に限り、
売上の一部がratikの事業活動資金となります。
ご支援、よろしくお願いします。
詳しくはこちらをご覧ください。
〔問〕 そうですか。それでは、現地に入り、それぞれの人が感じたこと・考えたことを上手く引き出して聞き取ることができたのでしょうか。
ところが、しばらく経ってから、起こったことに対する解釈は、必ずしも現地の人たちだけで構成されていくのではない、と考え始めたのです。メディアの力によるところが大きいのですが、自らに起こったことがどのようなことであったかを解釈していくにあたり、被災した人びとは、いわゆる知識人が提供してくれた言説を読むわけです。また、報道機関は当然、現地に入り、現地の人の言葉を拾いながら、起こったことに対する解釈を提供していったのだと主張するでしょう。しかし、レポーターが現地で感じた、現地に入ってみないと分からない感覚は、そのまま報道することができなかったのではないでしょうか。なぜなら、現地で見たことの中には、非日常にありながら、日常的に、つまり普通に振る舞うことができていた人びとがたくさんいたからです。このような人びとの状況を載せることは、「本当に苦しんでいる人びと」に対して、道徳的な観点から非難される可能性を感じ取ってしまうのではないでしょうか。非日常性の中にある日常性を伝えることについては、被災した人びとの状況を軽んじてしまうような風潮をつくり出してしまうかもしれない、という懸念を持つのかもしれません。そして何よりも、そのような人びとをどのように理解してよいのかよく分からなかったのかもしれません。
私が赴任した高校の図書室には、今回の大震災関係の本が順次寄贈されていましたので、できる限り関係する本を読んでみました。その中には、現地に来ないままに何らかの議論を展開している人たちもいたのです。ここで、私の論旨を取り違えないで欲しいのですが、来なければ何も書いてはいけないということではないのです。中には、大変重要な視点を提供してくれるものもありましたから。それよりも、起こったことがどのようなことであったのかについての理解や解釈は、実際に被災した人たちだけでつくられるものではないという自分の気づきに、私は興味を引かれたのです。同時に、現地の人びとの生の声があまり聞こえてこないという印象も持ちました。
そして、そのような論旨、理解、解釈に対して、現地の人たちはどのように反応できるかというと、実はできないのだ、と気づきました。一般の人が、知識人に対して何も言うことができないと思うのは当然です。ところが、それだけではなく、報道に登場する一般の人びとの言説に対しても、何ら異議を申し立てることができないという状況が生じているようなのです。たとえば、メディアがある被災者を特集したとしましょう。その報道内容は、あるテーマ性を持って構成されます。そのプロットに沿わない枝葉は取り除かれます。先ほど述べたように、カメラの枠に入らないところは映らないのです。このような報道を見て現地の人は、どのように反応できるというのでしょうか。報道されたことが違うと言える人はいないのです。被災者といっても、自分のこと以外も分かると思える人はいないでしょう。被災地の人たちは報道に接して、「世の中にはそのような人もいるかもしれない」と容易に思ってしまうでしょうし、ましてや「そうじゃない人もいるのだ」と主張をすることは非常に難しいと感じることでしょう。
このような状況が見えてくると、ナラティヴ・セラピーが主張していることが、大きな意味を持っていきます。ナラティヴ・セラピーでは、その人自身のストーリーに耳を澄ませていくことを大切な課題と見なしています。ところが、セラピストがクライアントに自由に語らせても、その人自身の話がうまく出てくるものではないという点も、ナラティヴの根底にある考え方のひとつです。なぜなら、人は自分に提供された枠組みの中だけで、話そうとしてしまうからです。つまり、その人の感性、理解、感覚、思考などを聞きたいのだという姿勢をこちらが提供することによって始めて、相手は、その人なりの言葉で語るようになることができるからです。この姿勢について付け加えますと、それは語らずとも伝わるような姿勢ではありません。私たちがどのような話を聞きたいのかという点については、相手にしっかりと伝えていかない限り、相手は、一般的に求められているようなことを話そうとしてしまいますから。
よって、私の姿勢は、今回の震災に対する、その人自身のオリジナルの説明、解釈、理解などを交えた話を聞いていこうとすることだと、任務の途中で思えるようになりました。これは、日常でもナラティヴ・セラピストが取り組むべきことです。被災地においても同じようにすべきだと気づけたのは、私が活動する上で大きな支えになったといっても過言ではないと思います。
〔問〕 被災地の人びとに対する心理的援助というのは、従来の「カウンセリングの枠組み」に収まりきらない部分があったのではないかと想像します。まずは国重さんが、生徒たちをはじめ、現地の人びとと関係性を取り結んでいくプロセスがどのようなものであったか、教えていただけますか。
関係性というときに、この言葉が示す重要な点は、双方向のものだということです。まず、お伝えしておきたいのは、私のような外部からの人間を、受け入れようとしてくれた学校の先生たちがいたということです。教員自身もたくさんの人たちが被災しており、学校の日常性を維持すべく大変な思いをしていました。それでも、私たちへの対応に時間を割いてくれて、子どもたちに対応するためにはどうすればよいのか、一緒に考えてくれたのです。このことに本当に感謝しています。
学校という場は日頃から忙しいところです。このような震災があったからといって、学校の日常的な業務をしなくてもよいのは、学校が再開しないまでの話です。どんなに学校の体制が整っていなくても、ひとたび学校が始まれば、授業はもちろんのこと、生徒指導、学校行事などをこなして行かなければなりません。震災後は、被災状況の把握、生徒の個別の対応、外部支援への対応、避難場所にいる被災者への対応、行政への対応など、多種多様な業務も発生しました。それらの業務の特徴は、過去の前例がない、初めての仕事であるということです。そのため、この時学校職員が直面している状況を理解するためには、繰り返しの業務で忙しいのではないということも、加味しなければならないのです。
このような中で、私のような外部の人間に対応する余力などあるわけがありません。しかし、対応してくれたのです。このことを当然のこととして受け流してしまうことは決してできません。なぜ、進んで対応してくれたのでしょうか。学校職員と話しながら気づいたのは、学校の先生たちが本当に生徒のことを心配していたのが大きかったということです。
私が現地に到着してからすぐに、受け入れ体制を示してくれたことは、その後の活動を円滑なものにしてくれました。また、先生たちは情報交換の中で、子どもたちの様子はもちろんのこと、震災直後の話から、今までの経緯までいろいろと話をしてくれました。子どもたちと話をしていく前に、ある程度現地の様子を直接現場の人たちから聞くことができたのは、以後の活動にとって貴重なことであったと思います。
〔問〕 状況が状況ですし、国重さんにとっても遠方の見知らぬ土地での活動着手となりました。通常のスクールカウンセリングにおいてもカウンセラーと当該の学校の先生との良好な関係性は重要でしょうが、気仙沼の高校の先生たちの熱意が今回の国重さんの力になっていったことが、よく理解できました。
ところで、ナラティヴは、言葉に着目し、言葉の力によってセラピーを進めていきます。被災地で関係性を取り結んでいく上で「言葉」に関してどのような態度が必要になりましたか。
先生と調整しながら、生徒たちにアプローチを始めました。学校の状況によって、アプローチを変えなければならなかったのですが、ホームルームの時間を少しもらって、教室を回ったりしました。また、学年ごとに話をしたこともあります。この時には、私の自己紹介、派遣された理由、そして、被災したときに出る反応の可能性について話をしたりしました。また、私の紹介などを含めたカウンセリングへの案内を印刷して、配ったりしました。
この時に、最も注意したことは、自分の言葉の使い方です。メディアによる「負けない」「がんばろう」などの言葉の氾濫は、多くの人にとっては、耐え難いもの、心に突き刺さるものとして受け取られている、ということは容易に想像がついていました。カウンセラーとして、いろいろな場面でいろいろな言葉を発していく必要があります。職員室で、会議で、生徒たちを前にして、個人個人の面談で、カウンセラーは話をしていきます。
私は、被災した人たちにとって、どのような言葉が安全な言葉であるのかを考え続けてきました。それは、被災者の心に刃物のように突き刺さることがない言葉を選択していくことです。ここで注意しなければならないのは、安全な言葉を使うことが、「ありきたり」の言葉を使うことになってしまってはならないということです。たとえば、「大変だったね」「辛かったね」「苦しかったね」などの言葉は、相手の語りたいことを引き出せません。なぜならこのような語りかけは質問とは呼べず、語り手の解釈を伝えているだけだと考えているからです。被災地の大人たちだけでなく、子どもたちさえも、このような声かけに対して、しっかりとうなずいてくれるでしょう。それは、自分のことを心配してくれていると理解できるからです。相手との会話において、語られる内容が私たちのことを察して答えてくれるだけになってしまってはいけないでしょう。
どこでも、誰にでも、有効な言葉などないのかもしれませんが、自分の言葉はどのように受け取られるのだろうかという、絶え間ない内省・振り返りをする必要がありました。この派遣の最中に、不用意な言葉を使ってしまったことは、当然ありました。適正な言葉をしっかりうまく使いこなせるようになるまでには、時間がかかりますので、このようなミスは不可避のものでもあったと思います。しかし、この用心深さが現地での活動を容易なものにしてくれたと、実感しています。トライアル・アンド・エラーと失敗を犯さないようにする用心深さは、起こったことを説明する「理論」ではなく、人とのやりとりという「実践」において、非常に大きな要素であると信じていますし、これ抜きに、臨床活動は難しいでしょう。有効な言葉の使い方は、事前に準備していくだけでなく、臨床活動を行う場面によって、修正を加えていくべきものであると考えています。
インタビュー記事(2/3)へとつづく
インタビュー記事(1/3)トップに戻る
ナラティヴ・プラクティスを通して見た東日本大震災後の気仙沼(2/3)へ
ナラティヴ・プラクティスを通して見た東日本大震災後の気仙沼(3/3)へ